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2012年12月4日火曜日

ここまで読むのだ読めるのだということ

 ともに対象となる文章を読もうではないか、と誘って一気にその文章の表すものに参入することが、語学教育の第一の動機でしょう。

ポドテキストの解明とシステム論の構築とがともに実現されるのですから、いきいきと働く本人の精神が水を得た魚のような活躍を示すのです。

一昨日からジャック・シュヴァリエの『ベルクソンとの対話』を訳本で読んでいます。

魂と精神の問題が様々な角度から問われるのです。

オールド・ファッションもなかなか良いですね。
 

2012年11月20日火曜日

今、日本には

87CLOCKERS』というコミックがある。

まだ序盤だから、この先どうなるかわからないが、コンピューターの機能を、冷却装置を用いて極限まで上げて行く若者たちの物語だ。


1980年代の基礎工学の講義は「bit」のlog定義から始まった。

2010年代の基礎工学はどこから始まるのだろう。


ポドテキストの解明は集約されざる世界の意味を、確実に縮小していく。

それは、文学や音楽などの芸術にとっては、「自由の獲得」にもあたる。


自由を獲得するためには、それを妨げる障碍を取り除く作業を必要とする。


ここだ。ここが焦点だ。

 

2012年11月19日月曜日

システム論にあっては

システム論にあっては、言葉や音のポドテキストは、光による影あるいは本体にまとわりつく陰翳ではない。

ポドテキストは、その対象を可能な限り最大限に拡張するものだ。

これを拡張におおわれていく側から表現すると、もれなく悉皆万象がこの拡張に参入するのだ。

システムとして言葉や音をつむぐことは、拡張の義務を果たすための作業でもある。

解釈は、これもまた義務である。

2012年11月18日日曜日

活字と音符と

活字と音符とそれらのポドテキストが、われらの心を奪う。

より精確な表現としての詩語

ポオの『構成の原理』は面白いけれども、少しあやしげであった。

ヴァレリーやリヴィエールが志向したものが、より精確な表現であったとして、それが詩語構成のための詩学にまで濃縮されるには、詩人による意図された企画が必要となる。

マラルメやヴァレリーによる企画は、コトバの通常の役割を詩人本人及び詩人の創作を待っている読者の納得できる水準にまで特殊なものに改変することにあった。

では音に近似する詩語の効果はどこにあるのか?

詩そのものの中にある。

活字は音符なのかなあ。

そもそも

主語なき現象学というものはあり得ない。

けれども主語なき詩学はある。

2012年11月17日土曜日

いうまでもなく

音には主語がない。

時間ならば変化であって、変化は必要条件である。

しかし、変化は必ずしも十分条件ではない。

汎時性は「肘は外には曲がらない」という条件を傍らに置いている。

ヴァレリーが純粋詩=絶対詩の成立条件を音の世界になぞらえたことも、フッサールが内的時間意識の現象学に音の世界を引用して「把持」の実態を究明したことも、主語がないことの条件下では異相を呈してしまうのだ。

吉田氏流ではない。

和流の一般的性質なのである。

 

心底に複数の層があり

一方から一方へと移行する。

本当のものがあって、そうではないものから本当のものへと移行する。

抜け出す口のない意識が、あるところから開放される。

日本語はどうか。

縁語にしても掛詞にしても、最初からポドテキストの中で、複数の回路への移行の可能性が予め設定されている。

行き詰まったハムレットの心境は、論理における相互矛盾の意識の袋小路から、日本語独特のあいまいな中間的揺籃の往還の世界において、緩和されてしまうのだ。

2012年11月16日金曜日

或る時にはハムレットを

To be or not to be, that is the question.

この台詞には主語がある。

そして話者の奇異な立場や心境を示す。

話者の決断を否定している。

また、話者の存在を否定している。


しかし、主語を省略することの多い日本語の世界にとっては、この「奇」がさほど「奇」ではない。

2012年11月15日木曜日

日本語の特徴

主語省略可能という点を挙げておこう。

2012年11月14日水曜日

吉田健一論の問題

吉田氏はおそらく大学時代までの間に現象学の手法を知っている。
 

「自然と純粋」の敷衍

河上徹太郎氏の「自然と純粋」を吉田健一氏は敷衍する。

昭和17年10月號『批評』。

「近代に於る純粋の観念に就て」。

表現が「自然」であるのならば、ポドテキストとしての「純粋」があるのだ。

そして、吉田氏のたとえによれば、そのポドテキストの豊富さこそが、我が国の表現の背後にある認識=行為性の「伝統」の価値なのだ。

ここから出発しているので、吉田氏のことを小林秀雄氏が「あいつはものにならない」と断じても、その「あいつ」が持っている志向性があらわにならないのである。

2012年11月12日月曜日

純粋詩あるいは絶対詩

純粋詩あるいは絶対詩の所在を示唆するために、ヴァレリーは音楽を引き合いに出す。

「生起する一個の楽音はそれのみを以て能く全音楽的宇宙を喚起する。」

2012年3月28日水曜日

二つ記しておこう

一つは、早い時期に「末期の眼」についての定見を持つことだ。

もう一つは、もっとも軽い意味でのダンディズムを維持することだ。

この二つが決して別々のものではないことが、おそらく本当のところだと思う。


それにしても、河上氏にとっては、黙っておこうと思ったことを、説くのも説かぬのも同値なのではないだろうか。

そこが厳しい。

「第一の批判者は、営々たる仕儀の中に学問の価値の応用を認めた。
したがって、学問の方法を用いなかった。」

ここでもとに回帰するのだ。

2012年3月27日火曜日

借問する

河上氏における、無とは何か。

答えた者の手柄である。

禅って

ゼンゼンわからないんですけれど、と河上氏は言った。

従って、無、は禅学、あるいは西田哲学系の概念とは無縁だろう。

河上徹太郎氏の揮毫

「無」というものがある。

2012年3月22日木曜日

飛鳥新書ボードレール著『赤裸の心』

ボードレールの意識的な努力は、彼の生きた時代の現実の克服のためのものだった。

悲惨な醜悪な対象とそれを表現する言葉が集積されることによって、評言は行為と化し、克服の手段となると考えたのだ。

河上氏はそこを先ず説く。

ところがそれは表向きの話だ。

氏は精神を論ずる。精神は異なる複数のものを比較する所からそれらの本質をあらわにする。

氏が価値を論ずるとき、論ずるための前提としての補助線が引かれる。その引き方が鋭いのだ。

河上氏は晩年に至るまで、いたるところでカトリックとプロテスタントの精神の在り様の差異を示した。差異は打ち出される。しかし、本質の追求の成果や結果は記されない。

このような鋭い前提と慎重な沈黙とは、例えば三島氏や澁澤氏にも見られない種類のものだ。

わたしは、今でも思う。そもそも精神とは冷徹に比較できるものなのだろうか。

できる。それは河上氏の説くとおり。そして評言はある。しかし、慎重な行為となる。これもまた氏の示すとおり。

2012年3月17日土曜日

吉本隆明氏

大岡信氏について、大岡家の「家学」は実際どういうものなのだろう、と問題提起していた。

「歌学」のことだ。

この人ならではのセンス。



2012年3月14日水曜日

丸善の統計表

丸善の統計表。

これがある家は、科学者の家だ。

他には、統計用紙(方眼紙)。