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2013年12月31日火曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』8

ハーディンの論文『共有地の悲劇』の序にはウィーズナーとヨークの論文が引用されています。

それは、核戦争についての議論だったのですが、そこでは、軍事力の増と国家安全の減とのジレンマが取り扱われています。

それは「問題には技術的な解決はない」という結論を導きます。

同様に人口問題にも「技術的な解決」はないとハーディンは判断するのです。

根拠の一つは生物学上の事実であって、人口を最大にすれば、一人当たりの労働カロリーをゼロに近づけなければならないこと。

根拠の一つは数学上の事実であって、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによるもの。2つもしくは2つより多くの変数を同時に極大にすることはできないこと。

そして、従来の常識的倫理は捨てよ、といいます。

『救命艇上に生きる』では、おぼれている者は放置せよ、といいます。

いずれも倫理の性質の拡大を促すのです。

わたしは思うのです。

環境ー経済学が、今、従うべき方針は、本来非情なものなのではないか、と。

そして、当然の帰結として、現在および近未来の我が国の採用する方針を観測するのです。

さあ、教育の世界に帰ろう。

2013年12月22日日曜日

フッサールの前に

フッサールの前に、「生きている私」を基軸とする空間があります。

この空間はフッサールという生きている人間によって知覚される限りでの空間です。

私は現象学的心理学を用いる教育学を視野に入れていたので、こちらに関する考察は省きます。

情報に関する研究ではまず仮説としてのニューラルネットワークを構成します。

この過程で人はどのように学習するかが問題となります。こちらはコネクショニズムです。

さて、第一にニューラルネットワークに関する議論では、「生きている私」は捨象されます。

第二にコネクショニズムではニューラルネットワークの構成の過程で捨象された複雑な=未解明な=かっこでくくられた条件は再考されません。

第三に内的過程を重視する研究ではその内的過程への社会的因子の関与も省略されます。

第四に社会的因子の関与の排除によって内的過程の矛盾の過程の考察が重視されません。

我が国の教育学が1970年代以降一見反転しているかのように見えるのには、以上の4つの条件が関わっています。

これだけなら教育の世界だけの問題で済みました。

ところがこれが原因で、経済的破綻を招くとは、20世紀の間には多くの人間は予想できなかったのです。

 

2013年12月5日木曜日

今思うこと

私は最近、経済に根差す社会構造の特徴は「相互搾取」に尽きるという叙述を読みました。

このことは、価値論、価値を意図的に抜き出してそれを対象化するような考察の場では「価値観の相克」という意味に転ずるでしょう。

現実の事実叙述が確実に成立していれば、そのあとに当為がくるのでしょう。

しかし、実際には当為が先なのです。

当為が先であるのに、そのことに覆いをして、事実を叙述していくのも、我ながらいかがなものかと思います。

我が国の経済状況はあと3ケ月が山場です。

苦しいことだと思います。