2014年8月6日水曜日

志向性

ロマンティシズムに陽光があてられる、あるいはクライレスリアーナに何ものかの「達成」への意図がある、といった弾く前の曲想に対する弾き手の保持する構造が、演奏の志向性を形成します。

ここで、ウズナーゼの仕事が思い起こされます。なぜでしょうか。

2014年8月5日火曜日

ヴィルサラーゼ氏のショパン

個としての最小限度の空間から音を発するときに、たとえばリヒテルの対比奏法を用いれば、空間の内外で強固な外殻の突破を図ることができます。

エチュードとポロネーズをそれぞれ1曲ずつYou tubeで視聴しました。

楽譜の中のある簡素な推移に意味を与えるのには別のスタイルがあります。

エチュードとポロネーズとが同種の空間に溶け込みます。

氏の弾くチャイコフスキーに陽光が射すように、ショパンの曲の核心部分に陽光を向けるのです。

外殻を破らないままに。

2014年8月3日日曜日

子どもの自己中心的言語

ピアジェの命名した子どもの「自己中心的言語」の重要性はすでに児童心理学の世界で十分に認識されています。

これはいずれ内言へと変化する発達段階の一過程および一様態を形成するものですが、音の学習に関してはまだ解明されていないことを課題として残しています。

音を演奏するという行為は、内に向かって考え続ける過程と、外に向かって他人に聞かせるために働きかける過程と双方を含んでいます。

そもそも教師が子どもにある指示を与えて子どもが指示に従った振る舞いをすることが可能になった瞬間に、子どもは次のステップに向けての成長を始めるので、そこでは内化される過程が存在するだけではなく、内言に似た世界の中で価値が独り歩きを始めるのです。音によって表現可能な領域が広がります。

あるいはこうです。通常の言語に関しては、外言→自己中心的言語→内言の過程を把握していれば言語発達の過程についてはある程度の議論ができます。しかし、音についての認識は、言語の外に音という実体化したモノを併存させているために、演奏者一般は、この言語と音との相互補完の現実を意識しなければ対象化できません。音だけで「考える」ことができますしね。

言語における認識や表現とは異なる音における認識あるいは表現があるのであって、音があるときには外言に相当し、あるときには自己中心的言語に相当し、あるときには内言に相当して、それらの間にある境界は言語の場合に比べて不分明です。

さて、自己中心的言語に相当する音とは?







 

2014年8月2日土曜日

教師が子どもに

教師が子どもに弾き方を教えるときに、「〇〇のように」弾く、柔らかく弾く、といったコトバが用いられます。

これは、形式としては「例え」に属するコトバです。

しかし、弾き方を教授するときには、実質的指示を意味するコトバです。

教授効果が認められるので世界中で用いられています。

さて課題があります。

第一に、コトバはコトバであり、決して音ではありません。

第二に、子どもが教師の指示を教師の意図する通りに理解した場合、そこに再現される音とは何を意味するものであるかということです。

前者については、以前徹底して考えたので省略します。

後者については、古賀メロディーの悲哀表現をギターと歌詞とで再現する子どもや、コルトレーンの枯淡の表現を再現する子どもの例があります。つまり、悲哀なのか悲哀もどきなのか、枯淡なのか枯淡もどきなのか、です。

でも、モーツァルトが神童とみなされた理由の一端には、高い演奏技術があったといいます。

渋い表情でジャズを奏でる子どもの演奏家が、悲哀のような枯淡のような音をもたらしても、それは、「かのような」の範囲内で成立する価値です。「かのような」でもふつうはあまりありえないことなので、神童、と評価されるのです。

ウズナーゼ心理学

ドミトリー・ウズナーゼ派の心理学のことを想起しました。

「構え」に重点をおいた心理分析でロシア心理学の中でひとつの流れを形成していたものです。

弾く前にヴィルサラーゼ氏が黙然として音に想念を走らせます。

あるいは想念を模した何ものかが音として結実します。

2014年7月30日水曜日

ヴィルサラーゼ氏のモーツァルト

最初、You tubeで視聴しました。

かつて一度だけ録音を聴いたことがあり、このたびCDを一枚購入しました。

残響を抑えた音です。モーツァルトの音に、特に緩急の繰り返しの中での「緩」の箇所に省察の過程に似た推移への落とし込みが見受けられます。

しなやかな強靭さが音の粒の中にあると言い直してよいと思います。

これはぬかっていました。私の不勉強です。

2014年7月2日水曜日

グリモー氏のモーツァルト・アダージオ

室内楽団に取り囲まれて弾いています。

夜、この音に聴き入るひとときを持つことができて、しあわせです。