ラベル 学問,教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 学問,教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年7月11日日曜日

1ケ所で、リヒテルを賞賛するルフェビュール

 これは、内実を確認したかったところです。両者はずいぶん異なります。

ルフェビュール、リパッティ、フランソワ。

ちなみに、アントルモンのことをリヒテルは否定していました。ここからは別の話になりましょう。

2020年5月20日水曜日

ピアノ補遺

微分すなわちアキさんの方法にあっては、その終曲部にみられる音の結晶が一種の運動体であり続けていることを認識することになります。
積分にあっては、音の姿形が、存在の実相を呈することになります。実存を意味する、と付言してもよいと思います。受容する者は、そこにある内的言語およびそれを反映する自身の意識全体の双方を観測します。
ポリリズムは何を志向するか。ズルしてバフチンによるドストエフスキーのポリフォニー論を借用しましょう。同時に並存する複数の存在を対象とします。そのなかには、わたしが、他者の意識への近接を試みた内容の変形的言語の様態も含まれます。そして、それらの間を、本人の意識は遷移します。
ここでは、音楽家が音を意味づける初期的努力はチカラを持ちません。音の意味が、音自体の多様性によって彩られているのであって、音が人にあらたなことを教えます。場合によっては、個々の音、およびそれらに対する意識のありようは、ことごとく偶然的発現となります。
ここまでもってきて、さて、「他の人の内心の声に対して耳を傾けるように、事態を励起する営み」あるいは「誘い」は、どのように再論されるでしょうか。
真の悲歌とは何でしょうか。(これは、若き日の林達夫氏の問題提起でもありました。)理性に統御された明暗悲喜両面を併せ持つ類の簡素な音の集合であることに先ず第一の性格を求めるでしょう。しかし、選ばれた音は簡素でも、演奏はそこに人間存在一般の感情、その無限の数のさまざまなスタイルを活写するでしょう。そして、受容者にとっては、人の「情」に相当する何ものかの冷静な描出が成立することが、かなり重要なことになります。
問題となる2層、いま、「そこ」にある音により新たに地上にもたらされたすべてを特徴づけ、説明するための対置概念をどうするか。あとは若い諸君の努力に期待したいと思います。
わたしは、21世紀生まれのヤングですが、少々疲れました。じゃあね。
対置概念を発見したら、それを二次元的に直交させて4つの象限を表示してみてください。これは、見田社会学のスキルの一つでもあります。
そして、それら4つの象限のいずこからいずこへと風が回転しているかを示してください。
その現状診断のあとに、通常の場合、ここではさらに、いずこへと向かうべきかを考えることができます。
さて、社会学的反転とは、診断の部分の風の流れを反転させて、始期の段階での情勢判断に立ち戻り、それを破壊してみる試みを意味します。
推論
無定形の定型にあっては、自然音と宇宙音。
充実した理想的な静穏の確保と基底の確保。
したがって、身体的に統御された運動の可能性と演算の可能性。
であろうと思います。ここに、20世紀後半から21世紀初頭にいたる音の配置のための歴史的価値が収束するものでしょう。
強 い て 名指すならば、静止と運動、具象と抽象の両軸になるものでしょう。
リズム=テムポの発展形態にあっても、映像とのコラボレーションすなわち疑似的同時性(同時などというものは、この世には存在しませんから)の確認作業の発展形態にあっても、運動可能性と演算可能性の、静止対運動、具象対抽象の両軸が看て取れるのでしょう。
しかし、以上のような発想はありきたりのものです。クラシックな聆音察理の実際ですね。
新しい酒は新しい革袋に。若い諸君の努力を待ちたいところです。
ここで終えないで、もう一つ。変成と同一性の問題です。誰か、あるいは誰かたちのために振る舞おうとするのであれば、音がトレースしている、あるいは新たに創出するなにものかの保持する性質を、変成とも同一性ありとも見るものです。
何が先に立ち、それにどのように従属させるのかを考えないといけません。解析はスパスパ計算できます。でも、幾何的形象の推移によって、人の保護、人々への寄与のための条件を見定めておかないとならないと思います。
観察の徹底もよいですけれども、その成立よりも大切なものがありますので。
予想ですか?
キネステーゼの実際をどのように規定するのか、というさらなる網を全体に張ってみるという点検。
誠実な行為であるところの「二次元的展開」の範囲内に終始させるのではなく、わかりにくく、説明しにくい行為であるところの「より高次のn次空間」を考察の中に配置してみるという点検。
そんなところでしょうか。いずれにしても、まずは音自体に当たってみるところからやらないといけませんね。エゲンやメアンデルの音に立ち会ったうえで、考えることですね。

風を逆に吹かせて、遡源するとします。この運動はさまざまな人間が試みる常套手段ですので、誰もが自分なりにやってみることができます。
わたしは、尺八の音の分析のために、ヴェルゴ・レーベルを、ロシアの鐘の音の分析のために、クリストフォロス・レーベルの音源を調べてみたことがあります。
そこで、決定的に大切な注意点を申し上げますと、決まりきった原点にとびつく人がいるのです。
いやあ、ピカソの青が、とかゴッホの黄色がとかね。そこで、わがくにの文化の原点に飛びつくと、埴輪が、勾玉が、山桜が、ということになりますね。酒席での話のネタのように、既存の原点が賦活されます。
でもそれでは遡及不徹底なのです。
仮に、静止や具象の原点をさぐると、簡単にはいかないと思います。
これはある地点から影響を受けた、と発言することとは異なります。例えば、坂本龍一氏は、『惑星ソラリス』でのバッハ、アルテミエフについて言及なさることがあります。これは、いわば「そこから」と話すことです。
そうではなくて、遡源することは、普段容易には把捉されてはいない原点の音のありようを求めることになります。平板な静止、平板な具象とは何かを知るための行為に相当します。
それならば、「わたしは」何を以て平板と考えているのか。これがはっきりとしてきます。原点回帰のうえでの原点見直しあるいは原点破壊が、はじめて起動するのです。
価値論は、心理の結果ではなくて、むしろ心理のありようを解明する作業そのものが、価値の真核なのではないでしょうか。まあ、これにはいろいろな判断があり得ますね。
高橋悠治氏のことを、最初は文筆家として知りました。『小林秀雄を<読む> 』という15氏による小林論を集積した本がありまして、そこで、音楽論に接したのです。
以来40年、時の過ぎるのははやいものです。「指が月をさすとき、指を見るバカ」という観察が記されていました。結局、今回のわたしの討究も、指すら見ていない、という論旨をたどることとなり、さらに、「直観を磨く」という表現まで否定しましたので、なかなかね。
ハイドンとモーツァルトの交響曲を聴き分けるポイントは何か。
モーツァルトの曲の牽引力から離脱した演奏上の音の展開はどうなるのか。
この2つが、風の吹いていく先にある課題となりました。



2014年8月31日日曜日

いかに生きるべきか(2011年12月28日)

道徳的知識も宗教的知識も、なぜか手続き的知識から出発しないで、いきなり宣言的知識から入る。

そこで、指導者は「まず形より入れ」と手続き的知識に基づく手続き的振る舞い=動作に人を引き戻す。

それは身体の運動としては、自然な振る舞いから機械的な振る舞いへの引き戻しになる。

この引き戻しの過程で確認されるギクシャクしたありようの実態の解明こそが、日本における戦後の教育理論の重要な基礎となっているのである。

気づき、や学び、より気づけ「ず」、学べ「ず」の方の過程の具体的なありようの中にこそ宝があるのだ。


我が国に必要な論理には肯定的論理と否定的論理とがある。

2014年8月28日木曜日

さあ、探し始めよう

いままで、さんざんロシアの学者、芸術家でなくては把握することができなかった対象を並べてきました。

それでは、日本のそれらはどのようなものでしょうか。

2013年12月24日火曜日

今、そこにいる自分ではない人間

今、そこにいる自分ではない人間、に対する行為であることが、教授行為の原点です。

ヴィゴツキー(Лев Семенович Выготский、 Lev Semenovich Vygotsky)が障害者教育の研究に没入した起点には、彼が研究者として生きるのと同時に行為者として施術者として相手となる人間に向かって働きかける姿勢がありました。

あるとき、身体を震わせていて、自分の行動を制御することが「できないように見受けられる」一人の人がいました。

ヴィゴツキーは、紙片を細かくちぎり、その人の前に並べたそうです。

すると紙片をたどって、歩き出したのです。

総体の行為が人間の行為であって、それは単なる部分の集合ではありません。

また、人は人に対して働きかけなくてはならない義務を持っています。

ロシア教育学の学習=教授理論の根底には、この総合性と実践性とがあります。先に挙げた4つの条件はこれに比べれば、ほとんど意味を持たないといってもいいかも知れません。

2013年1月2日水曜日

ふまじめな決定論などは

ふまじめな決定論などというものは、もともと存在し得ません。

経済における決定論と宗教における予定調和論(2)

宗教の世界では予定調和の議論が欧州においてとりざたされました。

マックス・ヴェーバーがその価値を評価したことにより、資本主義前進の原動力に予定説、予定調和論が当てられても良いのだという考え方が社会学の中で生れました。

絶対者が、あらかじめ救済する対象を決定しているのだ、とする説です。

一応付言しておくと、カトリシズムの中には内包されないものです。

経済主義における決定論と宗教における予定調和論とは、互いに類縁関係にあります。


厳正なものです。それはある意味で人を容赦しません。

経済における決定論と宗教における予定調和論(1)

今日のシステム論と1980年代のシステム論とを比較して最も変化に乏しいのは如何なるパラダイムについてでしょうか。

それは、決定論についてです。

念入りに検証され洗練された理論および理論に基づいて形成された制度は、一定期間ののちに予定された成果をあげることになります。

また、決定「論」は、その予定された成果が予定どおりに挙げられることのみならず、理論および理論に基づいて形成された制度に対する全面の支持、達成への絶対的献身といった態度を測る基準にもなります。

決定論にとっての 類 例 が、我が国において自覚されたのは、所得倍増理論の成功のときだったでしょう。政府の予告通りのことが現実のものとなったものです。

しかし、我が国においては、決定論についての主調的議論はまず労働理論に関するものです。

毛沢東理論では、「固く、強く信じられ守られなければならない」というマニフェスト=宣言がなされました。

また、スターリニズムの時代に、最も激烈な決定論論議があったのも事実です。

それでは、日本ではどうであるのか。

日本の決定論は、各党派において少し性質を異にするのです。

そして、このことは教育の世界では教育理論に対する態度決定の在り方に濃淡を生んでいます。



 

2012年12月31日月曜日

師匠憤慨す

「平成」の元号に対して、わたしに最も近いところから苦情が出ました。

師匠が不機嫌なのです。

師匠は戦前の植民地である台湾で青春時代を過ごした人なので、アジア各国の人々の発言には敏感です。

平成の言葉のなかに明治、昭和同様「刃」を意味する漢字が含まれていることに、漢字文化圏に暮らす人々から遺憾である旨のコメントが出たというのです。

透視するに、平定・成敗ということだったのでしょうか。

わたしは、師匠に指摘されるまで全く気が付きませんでした。

国家の安寧秩序の維持

国家の安寧秩序の維持のために、その国家の基礎単位である諸々の社会は一応それぞれの立場において、具体的な方法や目標を設定します。

1868年前後に近代化をスタートさせた我が国がなんとか今日までその維持を可能にしたことの理由の一つに、江戸時代以来の儒学、国学の思想を実践的、実際的に改変して応用した倫理規範を立てることが可能であったことが挙げられるでしょう。

しかし、それは、絶対的にかつ正確に安定した規範であった訳ではありません。

もっとも、このことに対しては反論もあって、絶対的だった、あるいは正確だった、あるいは安定していたという評価もあります。

水戸学。元号制定に関与しています。始祖は水戸黄門氏です。

報徳会。こちらは二宮尊徳(金治郎)氏のお弟子さんたちの方ではなく、日露戦必勝の国策運動から継続した派閥の方です。

第二次世界大戦で敗北してしまい、ポスト昭和の段階ではどうなるかと我々は見守っていました。

結果として、「平成」が生れました。
 

2012年12月23日日曜日

道徳教育と宗教教育

日本の学校教育における道徳、倫理教育では宗教教育は禁じられています。

これは公教育の中立性を確保するためです。

世界のさまざまな国では、公教育であってもその中での宗教教育の在り方には多彩な基準が見受けられます。

宗教に共通する倫理的価値規範を教育内容に持ってくる場合もあります。


努力目標として、どこかで、何等かの形で、さまざまな民族、宗教の違いをこえて、対立を防ぐ教育が成立すれば良いと思います。

2012年12月21日金曜日

1957年スプートニク・ショック

ソヴェト教育の隠れた先進性にようやく日米ともに気づきました。

この直後から2回にわたる我が国の学習指導要領の改訂は、科学教育との生き残りをかけた勝負でした。

学ぼうとしない者は遂に学べないし、学んでもそのありがたさに気付かない者は量・質ともに教育課程を破壊したりします。

不況におちいってからの我が国の政治システムに教育に対する無理解と軽率なふるまいがあって、どのようなことになったのかは皆よく知るところです。

 

2012年12月14日金曜日

ピアジェの晩年の研究に

弁証法的発生論についての共同研究がありました。

ヴィゴツキーのことをちらと思いました。

前提はどちらなのでしょう。弁証法は先なのか後なのか。

ピアジェVSヴィゴツキーという比較は最後までスリリングだったような気がします。

2012年12月13日木曜日

人は倫理的価値を共有することができるのか

道徳教育の目標は、さまざまな種類の倫理的価値を複数の人間が立場の違いをこえて共有することにあります。

同一のあるいは類似の立場に立つ人間同士が価値を共有することにではありません。

前者と後者との間には、難度に格段の差があります。

2012年12月11日火曜日

教育の世界

何が健康の度合いを示しますか。

「教師は、一日やったらやめられない」といった小学校の先生がおいででした。

奥さまも小学校の先生でした。

好きで好きでしょうがない仕事として教職があるということが唯一絶対の基準でしょう。