ラベル 健康 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 健康 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年6月28日月曜日

無、を使いこなす

 無、を使いこなしたいものです。

汎ー時間のスタイルであると、「無を用いない」という条件故に、ひどい自己犠牲を強いることになります。

例えば、吉田健一氏は、小林秀雄氏の水準の乗り越えに成功しましたが、この方法では、小林氏の認識のループからは、小林氏自身は脱却できません。

無、を使いこなしましょう。


2018年5月21日月曜日

寒暖差と音

寒暖差の大きな日に音を聴くと、いつもとは違って聞こえます。

それは、きっと、音を補正しようとするからです。

聴覚が当たり前の方に一切を引き戻そうとするからです。


祈りの場合も同じことでしょう。

2014年9月6日土曜日

友人

今でもなお客観化できないのが、亡友の志を語るコトバです。

「希望が潰えたんだよ。」と言いました。

それは、学生たちの中にある真実を求めようとする意志の堕落についての話題だったのです。

病人が病気であるとします。その病気であるということには、不摂生や暴飲暴食やいろいろな原因があるでしょう。でも、根本的には、原因があるからといって、その人間が病気にかかることは、本人に責任があるものではないと思います。

彼は病弱でしたが、身体を鍛えていました。それなのに、若くして死んでしまいました。今でもたまりません。私は、理解者を一人失い、また、自分の仕事について方針転換をしなくてはならなくなったのです。

それは、多くを彼に依存していたからでした。彼が引き受けている守備分担の世界は彼に任せておけばよいので、自分はそうではない領域の住人であれば済むと思っていたのです。

ついえたんだよ。それは、いずれついえないように頑張った者にもおわりをもたらすものでした。

 

2014年8月29日金曜日

概要(2011年11月18日)

生きるものは、はかない。そのはかなさに抗して、はかなさではない何ものかを確認しようとする。

生と死の価値の再認識は、確認の過程と確認を通過した後のどうしようもないはかなさへの立ち返りの過程をそれぞれ意識的にたどることだ。

生の再認識も、死の再認識も、いずれはかなさの圧倒的な力に引き戻される。

人は常に重力を受けている。いずれ地に伏すべきことを約束する重力を。


このことを、既出のタルコフスキー論に合わせても、宗教論に合わせても、音楽論に合わせても根本の課題は変わらない。

2014年1月19日日曜日

ブレヒトの健康

ブレヒトによる風刺や皮肉はバランスぎりぎりのところに立っています。

しかし、ついに健康な側に落ちるのがこの人の強みです。

比較してはいけないとは思いますが、例えばベンヤミンのつらさは時々不健康の側に落ちたことにあったと思います。本人はつらかったろうと思うのです。

わたしは自分が病人であることが多かったので、この点が気にかかります。身体というのでもなく、精神というのでもなく。