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2020年5月20日水曜日

これからの予定

秋月禅学が狙った、瀧澤氏の「不可分、不可同、不可逆」についてです。 また、野口米次郎氏の論考『寫樂』、『詩の本質』に取り組むこととなりましたので、しばらくお休みです。

2015年6月13日土曜日

詩を生きる

したがって、我々は、詩を生きることを標榜します。

2015年6月10日水曜日

詩は必要だ

詩は結局必要です。

言語による文化の伝達がある限り、詩は人間世界の実像を記録するばかりではなく、未来の社会像の可能性をも示して見せます。

これは良質の音楽についても言えることです。

2014年9月15日月曜日

人情ものとは何か

人情ものとは何か。

江戸は夷斎先生に一任す。

現代に生きる人情ものは能、歌舞伎といった古典芸能からテレビ時代劇にいたるまで、手をのばせば届くところにいくらでもあります。

時代劇文庫というものが、昭和の頃にはあって、ずいぶんと読ませてもらいました。

映画の原作を研究する必要からです。

最近の時代劇の考証を云々する人々がいます。

わたしはあわせて、人情ものの小説が気になります。

小説の世界で一般にとおる流儀というものがあって、それは必ずしも考証に依存するものではありません。

まず読んで見られよ。読んで読んで読んでみられたい。

2014年8月26日火曜日

時の再構成

時の再構成の問題に立ち返ることになります。

歴史の歴史学的見直しについては、アナール学派の仕事が名高いものですが、まず史家の通常の歴史構成に対して、もっともはげしく抵抗したのは文芸批評家の小林秀雄氏だったでしょう。

小林氏は歴史の再構成には死んだ子どものことを思い出してやまない母親の精神が必要であることを主張し、さらにはベルクソンの時間論にならって、時の分岐点でOからAにすすんだ移動は、実はOからBにすすむこともできたものだ、といった可能性の並存を否定しました。

アナール学派の仕事に比較して、さらに付け加えるべき条件は、人の認識や言葉の獲得の過程での社会性の反映についてです。人は社会の中で社会的に認識を豊かにしていきます。学習を前提として持たない認識の発達はありえません。

タルコフスキー氏が、映画製作の中で呈した時の再構成の具体的方法には、必然性個別性と社会性とが両立されていました。これはロシアの大地に根差した叡智であったと言えると思います。

2014年8月10日日曜日

2014年8月7日木曜日

『ペテルブルグ』

アンドレイ・ベールイの『ペテルブルグ』。

翻訳家である学兄は、未見といいました。

「あの時代は銀の時代。私はまだ読んでいませんが、豊かな時代だったはずです。」

レフ・ヴィゴツキーが愛読していたと聞き、注目しました。

2014年1月17日金曜日

Brecht Songs

肥後幹子、高橋悠治の両氏。

『ガリレイの生涯』の話を友人からもらったばかりのことで、少し驚きました。

ブレヒトは強烈な観察者です。

戯曲の中に、事実も心情も伏在しています。

さて、この録音は時間をかけて聴こうと思います。

2013年8月23日金曜日

伊東静雄氏「曠野の歌」続き

これを連嶺の夢想を核とする叙景の形式を借りた叙情詩だとするのが、よくある判断です。

しかし、叙景と叙情が半々でもなく、これを叙情の装いを借りた叙景詩であるとすると、すっきりすると思うのです。

徹底した白雪を叙景する。

これが地上の価値の定着なのではないでしょうか。

2013年8月21日水曜日

伊東静雄氏「曠野の歌」

曠野の歌


わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時ときじくの木の実るる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸なきがらを曳かむ馬を
この道標しめはいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久とはの帰郷を
高貴なるが白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
(青空文庫より)

今、『富士山の文学』(久保田 淳著)を角川文庫で読んでいます。

わたしは、伊東静雄氏が『万葉集』の「時じくそ 雪は降りける」からの美しい連携として、曠野の歌を組んだとしても面白いと考えていたのを思い出しました。