2013年3月24日日曜日

Alva Noto氏の試み

ロゴスは、普遍への手段である前に集約の核である、という判断があるのでしょう。

そして、それはロゴスでも非ロゴスである音でも映像でも同様ではないでしょうか。

集約されたものが読解されます。

ちなみに圧縮されたものが解凍される、ということとはほんの少し異なります。

核=結晶がすでにして一種の達成でありますから。

2013年3月22日金曜日

utp_

久しぶりにutp_を視聴しました。

映像が二次元の相にあって表現するものは雄弁です。

はじめて観る種類の像でしょうか。

確かにそこに呈示されるさまざまな種類の像は、スクリーンに在る限りでは、はじめて観るものであっても、必ずどこかにすでに知っている要素があります。

近代に馴れた我々の経験が、新たな像を受容するのに助けになっています。

はじめてなのに、なじみがあるのです。

近代に馴れる度合いが小さい場合には、ここに在る像の受容の在り方は、また別物となるかもしれません。

2013年3月17日日曜日

クセナキス氏の『キアニア』

クラスター(音塊)としての音の形が、作曲者によって与えられます。

受容者の側は、それを受け流すことは決してできません。

それでは、作曲者の意識は何に対して向かい、何を対象としているものなのでしょう。

この問いに答えることが豊かなロジックをもたらしてくれるのではないでしょうか。