2012年11月20日火曜日

長広舌

おしまい。

今、日本には

87CLOCKERS』というコミックがある。

まだ序盤だから、この先どうなるかわからないが、コンピューターの機能を、冷却装置を用いて極限まで上げて行く若者たちの物語だ。


1980年代の基礎工学の講義は「bit」のlog定義から始まった。

2010年代の基礎工学はどこから始まるのだろう。


ポドテキストの解明は集約されざる世界の意味を、確実に縮小していく。

それは、文学や音楽などの芸術にとっては、「自由の獲得」にもあたる。


自由を獲得するためには、それを妨げる障碍を取り除く作業を必要とする。


ここだ。ここが焦点だ。

 

2012年11月19日月曜日

システム論にあっては

システム論にあっては、言葉や音のポドテキストは、光による影あるいは本体にまとわりつく陰翳ではない。

ポドテキストは、その対象を可能な限り最大限に拡張するものだ。

これを拡張におおわれていく側から表現すると、もれなく悉皆万象がこの拡張に参入するのだ。

システムとして言葉や音をつむぐことは、拡張の義務を果たすための作業でもある。

解釈は、これもまた義務である。

2012年11月18日日曜日

活字と音符と

活字と音符とそれらのポドテキストが、われらの心を奪う。

より精確な表現としての詩語

ポオの『構成の原理』は面白いけれども、少しあやしげであった。

ヴァレリーやリヴィエールが志向したものが、より精確な表現であったとして、それが詩語構成のための詩学にまで濃縮されるには、詩人による意図された企画が必要となる。

マラルメやヴァレリーによる企画は、コトバの通常の役割を詩人本人及び詩人の創作を待っている読者の納得できる水準にまで特殊なものに改変することにあった。

では音に近似する詩語の効果はどこにあるのか?

詩そのものの中にある。

活字は音符なのかなあ。

そもそも

主語なき現象学というものはあり得ない。

けれども主語なき詩学はある。

2012年11月17日土曜日

いうまでもなく

音には主語がない。

時間ならば変化であって、変化は必要条件である。

しかし、変化は必ずしも十分条件ではない。

汎時性は「肘は外には曲がらない」という条件を傍らに置いている。

ヴァレリーが純粋詩=絶対詩の成立条件を音の世界になぞらえたことも、フッサールが内的時間意識の現象学に音の世界を引用して「把持」の実態を究明したことも、主語がないことの条件下では異相を呈してしまうのだ。

吉田氏流ではない。

和流の一般的性質なのである。

 

心底に複数の層があり

一方から一方へと移行する。

本当のものがあって、そうではないものから本当のものへと移行する。

抜け出す口のない意識が、あるところから開放される。

日本語はどうか。

縁語にしても掛詞にしても、最初からポドテキストの中で、複数の回路への移行の可能性が予め設定されている。

行き詰まったハムレットの心境は、論理における相互矛盾の意識の袋小路から、日本語独特のあいまいな中間的揺籃の往還の世界において、緩和されてしまうのだ。

2012年11月16日金曜日

或る時にはハムレットを

To be or not to be, that is the question.

この台詞には主語がある。

そして話者の奇異な立場や心境を示す。

話者の決断を否定している。

また、話者の存在を否定している。


しかし、主語を省略することの多い日本語の世界にとっては、この「奇」がさほど「奇」ではない。

2012年11月15日木曜日

日本語の特徴

主語省略可能という点を挙げておこう。

2012年11月14日水曜日

Alva Noto氏の問題

氏は16年ほどプレハブ工法の仕事に就いていたという。

わたしは、今トポロジーについて学習している。

吉田健一論の問題

吉田氏はおそらく大学時代までの間に現象学の手法を知っている。
 

「自然と純粋」の敷衍

河上徹太郎氏の「自然と純粋」を吉田健一氏は敷衍する。

昭和17年10月號『批評』。

「近代に於る純粋の観念に就て」。

表現が「自然」であるのならば、ポドテキストとしての「純粋」があるのだ。

そして、吉田氏のたとえによれば、そのポドテキストの豊富さこそが、我が国の表現の背後にある認識=行為性の「伝統」の価値なのだ。

ここから出発しているので、吉田氏のことを小林秀雄氏が「あいつはものにならない」と断じても、その「あいつ」が持っている志向性があらわにならないのである。

2012年11月12日月曜日

純粋詩あるいは絶対詩

純粋詩あるいは絶対詩の所在を示唆するために、ヴァレリーは音楽を引き合いに出す。

「生起する一個の楽音はそれのみを以て能く全音楽的宇宙を喚起する。」

2012年11月11日日曜日

音の生成

詩人は術語あるいは数学の実現を図る。

音はどうか。

音はコトバとは異なる陰翳を擁する。

音のポドテキストподтекстはすみやかに夢を生み、ときにはそれを成就する。

2012年11月5日月曜日

吉田健一著『変化』より モーツァルトについて

「変化と慌しいのは従って対立する二つのものとも考へられる。どういふものでも、或はどういふことでも目立てば意識の平常の流れを乱すから慌しくてそれ故に新しいものばかりを追つてゐる人間は忙しい思ひをする。又目立つ程まだ新しいものは一般の変化並になるに至つてゐない変化であるからその形も定まつてゐなくて新しいことがそれが未完成である証拠になる。

併しモツァルトの音楽はそれが作られた時には新しいものに響いたに違ひない。」

このあとにモーツァルトの音楽の本質の一端が説かれている。それは省略。

少しあとで、こうある。

「詩も充実も詩人も世界で普通に行はれてゐる変化を乱さない点ではモツァルトの音楽と変りがない。」

さらに少し離れてこうある。

「モツァルトとショパンでそれが作つたものが何れも音楽であることに掛けて変りはなくてただ同じ音楽である上で違ふに過ぎずその違ひは聞いてゐれば解つてその何れも我々にとつて価値をなしてゐる。又それは自分の心を預けるに足りるといふことで或る種の光線を受けた山肌も我々の心を奪ふ。」

 

2012年11月4日日曜日

ふたたび、音の偏在

そして、類似の、また同時に相異なる音がいたるところにある。

「汎」の一字で表すことができる。

吉田健一氏の晩年の表現スタイルは言わば、「汎時性」であると高橋英夫氏が評した。

それが音ならばどうか?

評言を組み替えなければならない。

『思考の表裏』

ヴァレリー、ブルトン、エリュアールの三人がからんだ書物。

これにならうと、先の言明は組み替えられる。

「愉しみの時を選ぶことは出來ない。とくに精神が欲するだけでなく、魂や肉體が要求し、又既にその輪郭を大體描き出してゐる時に味ふことが出來ることはない。それは作曲家の意思に非常に有力な優越性を與へることである。何故なら、それは作品をしてその産れ出た所の、生きた世界と殆ど違はない世界などは一つも存在しないことを証すものだからである。音楽藝術家の仕事は、それが作曲家であれ演奏家であれ、音樂の中には、最高度の美的製作の本質的條件は唯一性であることを自ら見出さねばならない宿命を示すものである。」

一方で、ベンヤミンやアドルノには複製技術について問うことができるだろう。

ヴァレリーと音楽

「聴覚の世界に関しては、音や、響や、聲や、音色が、今後我々の手の内にあるのだ。」(河上徹太郎氏訳)

これは、録音のことだ。

「愉しみの時を選ぶことが出來ること、しかも精神が欲するだけでなく、魂や肉體が要求し、又既にその輪郭を大體描き出してゐる時に味ふことが出來ること、それは作曲家の意思に非常に有力な機會を與へることである。何故なら、それは作品をしてその産れ出た所の、生きた世界と殆ど違はない世界に蘇らせるやうなものだからである。音楽藝術家の仕事は、それが作曲家であれ演奏家であれ、此の録音された音樂の中に、最高度の美的製作の本質的條件を見出すのである。」

音の偏在。