音には主語がない。
時間ならば変化であって、変化は必要条件である。
しかし、変化は必ずしも十分条件ではない。
汎時性は「肘は外には曲がらない」という条件を傍らに置いている。
ヴァレリーが純粋詩=絶対詩の成立条件を音の世界になぞらえたことも、フッサールが内的時間意識の現象学に音の世界を引用して「把持」の実態を究明したことも、主語がないことの条件下では異相を呈してしまうのだ。
吉田氏流ではない。
和流の一般的性質なのである。
時間ならば変化であって、変化は必要条件である。
しかし、変化は必ずしも十分条件ではない。
汎時性は「肘は外には曲がらない」という条件を傍らに置いている。
ヴァレリーが純粋詩=絶対詩の成立条件を音の世界になぞらえたことも、フッサールが内的時間意識の現象学に音の世界を引用して「把持」の実態を究明したことも、主語がないことの条件下では異相を呈してしまうのだ。
吉田氏流ではない。
和流の一般的性質なのである。