2013年2月16日土曜日

クセナキス氏の『風の中の藁』

人が他の人に本当に伝えたいことを伝えるためには、この筆記文のように多くの言葉を費やす必要はないかも知れません。

ここに伝えたいこと と 伝える筆記文 とが対立するのですが、これは任意の対立です。

なぜならば、伝えたいこと と 伝える音楽 とについて対象化しているのですから。

文はなくても良いのです。

二項対立の音楽における現況は、ベートーヴェンのチェロ・ピアノソナタや、ブラームスのヴァイオリン・ピアノソナタによっても明らかなように、調和と同時に双方それぞれの、極論すれば勝手な意思表示のモチーフによって成立します。

これをクセナキス氏は、より精確に、調和及び双方の意志表示をすべて相対化します。

依存していて依存していません。

けれんみのないところに、His Last Bow があります。

音の素型の対置ですね。

2013年2月12日火曜日

クセナキスのEONTA

光には測定可能な圧力があります。

トランペットが止んだ時に、ピアノが音を発するのです。

しかし、それはあまりにもやわらかな静かな音なので、音をそのまま音として受けとることを許しません。

受容者の在り様を予想するのは作曲者の仕事です。

ここまでを予想しているのならば、音は光の圧力のように受け取られることを、わかっていつつ音を指示したことになります。

リヒテルの対比奏法は音楽の真の魅力を引き出したといいます。

そのとき、引き出さなければならない行程があるとすれば、それは努力や無理がその分かかっていることになります。

クセナキスはあらかじめ引き出す結果をじかに示しておきます。

わたしたちの意識は何かをひっかけてかえってきます。

フェイドアウト。DVDの映像より。

 

2013年2月10日日曜日

ライサ・マリタンにはじまる

ベルクソンの講義によってライサ・マリタンは希望を見出したといいます。

わたしとは順番が違うのだなと思いました。

ベルクソンはまず沢瀉久敬氏による紹介から読みました。10代のころで、明快で簡潔な表現と思考という論旨がベルクソンというよりも医学校で講義する哲人沢瀉氏の風貌を強く示していました。

確か同時並行で白土三平氏のサスケ、カムイを読んでいたのです。

ベルクソンの岩波文庫本と古本屋さんで買ってきた選集の数冊とで、わたしは遊んでいました。それは、あらかじめ、楽しめることがわかっていたからです。



 

2013年2月3日日曜日

エディット・シュタイン

フッサール夫人はいいました。

「あなたはいつも思いつめた表情をしている。」