2013年7月31日水曜日

水のイメージ(武満徹氏)

「なぜドビュッシーなんかの、あの頃の印象派といわれる人たちが水のイメージにとりつかれたか。」
「一番関係してくるのはフォームの問題、音楽構成の問題だと思うんですよ。」
「さっきのアキさんの表現を借りれば、ハーモニーと旋律がつかず離れずあって、非常に多層だ。そして、たとえばハーモニーが変わると、旋律自体は同じなんだけれども、まるで水が丸い器に入った時に丸い形になるように、それは変わっているということですよね。」

この多層性の音楽構成の中での謎が、尺八の音です。

曲の外側に向かって切り立つ笛の音があるのです。横山氏らの音の内省的といえるようなコントロールが、ときどき単独での尺八の音の外形を、曲から「離れて」受容者に伝えます。

さて、それは音ですが、「表現」なのでしょうか。

水のように統一された調和の音楽のただなかに、たちあらわれる音。

作曲者の武満氏はそこらの音の存在、水から離れる音の存在を喜んで尊重していたのではないでしょうか。

2013年7月30日火曜日

高橋アキ氏著『パルランド―私のピアノ人生』

ここに、貴重な著作が出まして、音を生みだす人の語る言葉が多くの問いをもたらし、また多くの解決をみています。

わたしは、最初に読み終って、著者の兄上である高橋悠治氏が、著者が弾く音が讃美歌のようになる、と評した点が頭の中で反響していました。

音は、それがどのような厳しい現実を活写するものであれ、そのことを認識してもなお、そこにその厳しさが表現されなぞらえられていることに感動を覚えずにはいられないものです。

それが厳しい認識とつながっていようとも、不愉快になろうと思って音を聴くのではありません。現実をそのようにとらえていることへの「共感」があって、そのことは変な言い方になりますが、喜び、に類するものとなるはずです。

讃美歌のような細い、高い、やわらかな、光源へと指向する音が、聴く者をどれだけ救うことでしょうか。

音の美だけは人を裏切りません。

価値の相対化を検証し、みずからの主観もきちんとバラバラに分解してやろうと待ち構えている者にさえ、それは絶対の真理です。

真=美がどこに存在するか、「言え」と問うて答えることができないのならば、例えば、『内的時間意識の現象学』なんて何の意味があるのでしょうか。わたしは美学者の作る文章が好きですが、美学なぞ信用しません。今道友信氏の著作ですら、ちょっと保留してしまいます。

生の現実の中に「在る」ことが絶対です。

 

2013年7月28日日曜日

音と音

それでは、この録音は開放へと向かうのでしょうか、それとも切迫へと向かうのでしょうか。

わたしは、全く同じ問いを別の世界で立てたことがあります。

黒澤明氏の『隠し砦の三悪人』の終局部。

裏切り御免、からの一連の急展開が、遂に三者の揃い踏みで舞台転換して閉じます。

ここに、これは開放であるか、切迫であるか。

吉田氏は武満氏を広く紹介したいのです。

そこで、禁欲的な自己規制という言葉を音楽に当てたのは、おそらく氏の武満人物観の結晶の表現なのでしょう。

でも、音を聴いてください。

例えば、ピアノ・ディスタンスは、高橋悠治氏のピアノ演奏にかかるものです。

音はいつものように丸く、穏やかな基調です。そこに細音、太音、高音、低音が散らされていて、真の特徴は音と音との間にある「間(ま)」にあります。

そこで透かされて見えてくるのは、日本の音、文楽、能、浄瑠璃、筝曲等のすべての集合から、作曲者が見抜いた数々の特徴から、さらに選ばれた音と間なのです。

それが、奏者のタッチの鮮烈さで増幅されるのです。音と間とが一体化されて増幅されるといってよろしいのです。

あとは受容者の側が、何を聴きとり、己の耳と心とをどこに落着させるかです。

厳しい、とストラヴィンスキーが感覚したのは、作曲姿勢ではなく、曲の特徴でしょう。

それは、おそらく選ばれた「和」の音楽の持つある特徴をさらに鮮烈に研ぎ澄ました音だったに相違ありません。

良い音を聴かせてもらいました。

吉田秀和氏の評言

『武満徹の世界』の解説に、吉田秀和氏がストラヴィンスキーの評語を引用しています。

「あの小柄な男が、このような厳しい作品を書くとは。」

この「厳しい」の部分を敷衍して、吉田氏は、音の素材の自由ではなく、創作する者の禁欲的な自己規制の厳しさのことだと信ずる、と続けています。

そして、その例としてピアノ・ディスタンスなどを挙げているのです。

わたしは、ここで立ち止まります。

これは少し早すぎると思うのです。

吉田氏が生きておいでの間に質問すべきでした。
 

2013年7月20日土曜日

シャルル・カミーユ・サン=サーンス

プラガ・レーベル。

ピアノ協奏曲第2番:ギレリス、クリュイタンス

序曲とロンド・カプリチオーソ:スターン、オーマンディ

チェロ協奏曲第1番:ロストロポーヴィチ、サージェント

ヴァイオリン協奏曲第3番:グリュミオー、フルネ

昔のヴルタヴァ・レーベルですね。

音、音、また音で、圧倒されました。

2013年7月16日火曜日

歌の翼に

Auf Flügeln des Gesanges,
Herzliebchen, trag ich dich fort,
Fort nach den Fluren des Ganges,
Dort weiß ich den schönsten Ort.


Dort liegt ein rotblühender Garten
Im stillen Mondenschein;
Die Lotosblumen erwarten
Ihr trautes Schwesterlein.

Die Veilchen kichern und kosen,
Und schaun nach den Sternen empor;
Heimlich erzählen die Rosen
Sich duftende Märchen ins Ohr.

Es hüpfen herbei und lauschen
Die frommen, klugen Gazelln;
Und in der Ferne rauschen
Des heiligen Stromes Welln.

Dort wollen wir niedersinken
Unter dem Palmenbaum,
Und Liebe und Ruhe trinken,
Und träumen seligen Traum.
 
これは東洋の表現です。
 
しかし、メンデルスゾーンは、普遍表現を志す国際派の音楽人でした。
 
ハイネの詩も面白いけれども、メロディーが美しいと思います。

2013年7月15日月曜日

アサフィエフによるメンデルスゾーン

樹下節氏訳で。

「美しく典雅な様式をそなえたメンデルスゾーンは、ブルジョア的音楽現象に、封建的王侯の居城や貴族のサロンの耽美主義の名残りをもち込んだ。」

そうですね。