2012年12月31日月曜日

師匠憤慨す

「平成」の元号に対して、わたしに最も近いところから苦情が出ました。

師匠が不機嫌なのです。

師匠は戦前の植民地である台湾で青春時代を過ごした人なので、アジア各国の人々の発言には敏感です。

平成の言葉のなかに明治、昭和同様「刃」を意味する漢字が含まれていることに、漢字文化圏に暮らす人々から遺憾である旨のコメントが出たというのです。

透視するに、平定・成敗ということだったのでしょうか。

わたしは、師匠に指摘されるまで全く気が付きませんでした。

国家の安寧秩序の維持

国家の安寧秩序の維持のために、その国家の基礎単位である諸々の社会は一応それぞれの立場において、具体的な方法や目標を設定します。

1868年前後に近代化をスタートさせた我が国がなんとか今日までその維持を可能にしたことの理由の一つに、江戸時代以来の儒学、国学の思想を実践的、実際的に改変して応用した倫理規範を立てることが可能であったことが挙げられるでしょう。

しかし、それは、絶対的にかつ正確に安定した規範であった訳ではありません。

もっとも、このことに対しては反論もあって、絶対的だった、あるいは正確だった、あるいは安定していたという評価もあります。

水戸学。元号制定に関与しています。始祖は水戸黄門氏です。

報徳会。こちらは二宮尊徳(金治郎)氏のお弟子さんたちの方ではなく、日露戦必勝の国策運動から継続した派閥の方です。

第二次世界大戦で敗北してしまい、ポスト昭和の段階ではどうなるかと我々は見守っていました。

結果として、「平成」が生れました。
 

2012年12月23日日曜日

道徳教育と宗教教育

日本の学校教育における道徳、倫理教育では宗教教育は禁じられています。

これは公教育の中立性を確保するためです。

世界のさまざまな国では、公教育であってもその中での宗教教育の在り方には多彩な基準が見受けられます。

宗教に共通する倫理的価値規範を教育内容に持ってくる場合もあります。


努力目標として、どこかで、何等かの形で、さまざまな民族、宗教の違いをこえて、対立を防ぐ教育が成立すれば良いと思います。

2012年12月21日金曜日

1957年スプートニク・ショック

ソヴェト教育の隠れた先進性にようやく日米ともに気づきました。

この直後から2回にわたる我が国の学習指導要領の改訂は、科学教育との生き残りをかけた勝負でした。

学ぼうとしない者は遂に学べないし、学んでもそのありがたさに気付かない者は量・質ともに教育課程を破壊したりします。

不況におちいってからの我が国の政治システムに教育に対する無理解と軽率なふるまいがあって、どのようなことになったのかは皆よく知るところです。

 

2012年12月20日木曜日

ピアジェ コントラ ヴィゴツキー

両者ともに弁証法を念頭に置いた推論を手掛けていたことがわかっています。

しかし、ヴィゴツキーには教授-学習過程での教育が持つ積極的な役割が視野にあります。

教授学における先進性がピアジェとは異なる軌跡をたどっていたのは、 弁 証 法 と は
 関 係 の な い 地点においてです。
 

2012年12月18日火曜日

弁証法の随伴

おおまかに描いてみて、まず弁証法は自然の中から見出された帰納的結果としての法則性を特徴とします。

次に、それは様々な学問の傍らにある価値判断のための比較基準です。

最後に、今以降の未来にかかる価値発展の保証の根拠です。

これらが、学問史の中にあらわれます。

顕著なのが、ソヴェト時代のロシアの学問における意味です。

自然法則、価値基準、発展保証いずれにしても学問を取り扱う者にとって強い意味を持っていました。

2012年12月16日日曜日

ピアジェらの立場は

実験心理学の実証に裏付けられた推論は、クーンらの演繹的推論を上回るとするものです。

少し待ってほしい。

弁証法の過程を実際の発生論にあてはめることは、まず先に演繹的推論の成果を必要としているのです。

もうひとつ、パラダイムの進展に際しての本質的緊張の問題があります。

こちらの方がより実験心理学のような実証性を必要とするものなのです。

一度、ピアジェとクーンの双方を現象学的還元にかけないといけません。

さらに、このピアジェの最後の共同研究は、要検討対象だと思います。

 

2012年12月15日土曜日

という形でお茶をにごすわけにもいきませんね

ピアジェにしても本当のねらいはそこに記述されているものには限らないので、

「内」から「間」へ、ついで「超」へとむけた移行

均衡化

と2つのメカニズムについて考えるときに、実証性を随伴させて、すなわち自身一生の研究成果を背後に控えてものを言うのです。

ここに研究成果のはらむイメージが先行して存在していなくてはなりません。

 

2012年12月14日金曜日

ピアジェの晩年の研究に

弁証法的発生論についての共同研究がありました。

ヴィゴツキーのことをちらと思いました。

前提はどちらなのでしょう。弁証法は先なのか後なのか。

ピアジェVSヴィゴツキーという比較は最後までスリリングだったような気がします。

2012年12月13日木曜日

人は倫理的価値を共有することができるのか

道徳教育の目標は、さまざまな種類の倫理的価値を複数の人間が立場の違いをこえて共有することにあります。

同一のあるいは類似の立場に立つ人間同士が価値を共有することにではありません。

前者と後者との間には、難度に格段の差があります。

2012年12月11日火曜日

教育の世界

何が健康の度合いを示しますか。

「教師は、一日やったらやめられない」といった小学校の先生がおいででした。

奥さまも小学校の先生でした。

好きで好きでしょうがない仕事として教職があるということが唯一絶対の基準でしょう。

2012年12月10日月曜日

教育科学は

教育に関する一連のものの考え方が本当に科学を根拠としていることをどこまで実感できているかにかなり左右されるのだと思います。

ウシンスキーはその『教育的人間学』の中で、技術と科学とを混同している場合が如何に多いか、といいます。

教育は本物の科学によって基礎づけられていなくてはなりません。

オーギュスト=コントは、諸科学は天文学にならうべきだと説きます。

これは、彼の時代にあっては、天文学こそが真の科学であったからです。

2012年12月9日日曜日

教育学とはなにか

教育学というものは単なる心理学の延長や応用ではあり得ません。

つまり、教育学には教育独特の教授-学習過程があって、近接の諸々の科学は、この過程に溶け込み消化されることによって、初めて意味あるいは意義を持つ形式で機能し始めるのです。

これは、生理学(20世紀のはじめにはおもに反射学)などについても言えることです。

わたしは、父が運動生理学者でしたので、このあたりの呼吸が非常に納得できるかたちで理解できると思ってきました。

ロシアといえば

音と学問。

良いところがはっきりとしています。

それが特徴でしょう。

今、言語学者アレクセイ・レオンチェフ編集の『ヴィゴツキーの語彙』を読んでいます。

少々かわった趣向で、土壌学(児童学あるいは教育学)、心理学、障害学等のさまざまな用語について、編者の記憶に残るヴィゴツキーの特徴的な発言、記録を並列してあるのです。

良いところがはっきりとしています。

それが特徴でしょう。

2012年12月4日火曜日

ここまで読むのだ読めるのだということ

 ともに対象となる文章を読もうではないか、と誘って一気にその文章の表すものに参入することが、語学教育の第一の動機でしょう。

ポドテキストの解明とシステム論の構築とがともに実現されるのですから、いきいきと働く本人の精神が水を得た魚のような活躍を示すのです。

一昨日からジャック・シュヴァリエの『ベルクソンとの対話』を訳本で読んでいます。

魂と精神の問題が様々な角度から問われるのです。

オールド・ファッションもなかなか良いですね。