2021年7月25日日曜日

DENON ロシア・ピアニズムの系譜

 ソフロニツキーによるスクリャービン練習曲嬰ト短調です。

トロイメライ奏法の爆裂です。

マリア・ユーディナによるチャイコフスキー協奏曲

 この曲は、ロシアの古くからある俗謡をもとにできたものです。

したがって、既知の価値がそこにあると前提して、曲の構成を「アンソロジー」の形式に集約して見せてよいのです。作曲者の意図がそこにあったかどうかは不明ですが、演奏家における解釈は、そうあることができます。

ユーディナさんは、解析的に音を並べます。そして、楽団のテムポに合わせるところでは合わせています。遅速変化の統御が、ソリストの工夫の中心です。

ナタン・ラフリン指揮キエフ・フィルでした。



2021年7月21日水曜日

マリヤ・ユーディナによるバッハ、モーツァルト

 早くから仮説があって、モーツァルトをバッハのように弾いているのではないか、と考えていました。

このたび、まとまってモーツァルトの音源を確かめることができて、それは肯定されました。

ところが、バッハに立ち返ると、バッハはモーツァルトのように弾かれています。

従って、ユーディナ氏の奏法は、両者のあいだに礎があることがわかります。


2021年7月19日月曜日

ミケランジェリによるモーツァルト20番協奏曲

 1988年の心臓発作で倒れたのちに、復帰の際の曲として用いました。うたいながら練習し、実際に公演に臨みました。

晩年には、できるだけモーツァルトを弾きたい、と考えていたようです。




リヒテルによるバルトーク協奏曲

 岩城宏之指揮フランス放送国立管弦楽団です。

この録音は、彫心鏤骨のものであったといいます。なお、リヒテルには、バッハの協奏曲のリハーサル風景が映像で残っていますが、これは静かなものでした。

1930年の作曲。演奏は1967年。世界にもバルトークの名が民族音楽の大家として知れ渡っていたときです。

したがって、民族性とともに、そこには新しい潮流が音として体現されなくてはなりません。この演奏家に求められる義務が、確固たる音の成果を「そこに」呈しているのが、一切の結果であり、始めとなります。

2021年7月18日日曜日

ミシェル・オークレールのテレマン演奏

 画像を視聴しています。1965年。バロックをロマン派でという音です。美しい。

2021年7月15日木曜日

モーツァルトのピアノ協奏曲21番の第2楽章

 ここには、「還ってきた」という実感がいつもわきます。

ひとは、ブラームスの交響曲第1番の第4楽章にそれを求めることもあるでしょう。

あるいは、ドヴォルザークの新世界交響曲の調べにそうすることもあるでしょう。

アンダンテ・カンタービレの人もあるでしょう。


わたしは、この第2楽章が好きなのです。いま、リパッティ、カラヤン、ルツェルン音楽祭楽団で、聴いています。聴く機会を得てよかったです。

2021年7月13日火曜日

ショパンの夜想曲62-2

 ディノ・チアーニの演奏です。音の表情に、奏者自身の演奏時の表情が重なり合います。すなわち映像で視聴したのですが、流麗たること見事なものでした。

2021年7月11日日曜日

1ケ所で、リヒテルを賞賛するルフェビュール

 これは、内実を確認したかったところです。両者はずいぶん異なります。

ルフェビュール、リパッティ、フランソワ。

ちなみに、アントルモンのことをリヒテルは否定していました。ここからは別の話になりましょう。

2021年7月5日月曜日

ギレリスのシューマン「アラベスク」

 わたしの師匠は、ギレリスの演奏が国際派、という俗称を得ていたことを、当然の評価であると考えていました。ベルギー、カナダ、アメリカをめぐって修道生活をしていた人物ですので、自らの経験と知識とに基づく判断でしょう。

このシューマンの録画は、アラベスクというヨーロッパ中心主義の否定的契機の表出である曲を、「ロシアの」立場から「ロシアにおける異国情緒」の感覚を残して演奏することに該当するのでしょう。タタール主義への感覚です。

面白いです。







2021年7月4日日曜日

こころ豊かな鉄道の旅

 汽笛が胸にしみます。いま、汽車に乗っているような気がします。

2021年7月2日金曜日

棋戦譜

棋譜は、反転させることができます。しかし、これは本物の反転ではありません。このことは、楽譜にある音符を逆行するときにも同じことが言えます。時代は変わっていて、録音をさかさまにたどることが可能ですが、音の列は音符の順に楽譜通りに反転させても、ニセモノの反転にしかなりません。


アンドレイ・タルコフスキーは『鏡』を創作するときに、このことに気が付いていたはずです。そして、より直接の認識は、セルゲイ・エイゼンシュテインにおいて得られていたはずです。