2012年2月16日木曜日

じゃ。

じゃ、またね。

イエイツへの言及(4)

河上氏との対談。かなり酔っていた。

「時代が生き抜くということは、だれか人間がいるということでしょう。

イエイツというのがいたな。それで生き抜いちゃったな。

殉ずるのと生き抜くのとは、ちょっと違うでしょう。ずうっとあとの文学史からいえば、なんだか知らないけど、殉じる人たちと生き抜く人たちがいるに違いない。

だから自分が生きていたっていいじゃないですか。なにもそんなに死に急がなくてもさ……。」

イエイツへの言及(3)

「併しイエイツはこの詩で、必ずしもその鳥(金で出来た鳥)になりたいと言っているのではない。人間は生れた時に自然に従った形をしていて、やがてその銘々の精神が取るべき形をなすことに向って行くのが成長することであり、我々が遂になすに至る形が自然のものではないのは、人間の精神がもともと自然通りに働くものではないからである。その結果が、例えばビザンチンのモザイクに似て自然に反しているのは、それ故に初めから予定されたことであって、精神はそうしてその本性に違わない努力を重ねることで漸くその形を得る所まで行く。

Cast a cold Eye
On Life, on Death.
Horseman, pass by!

生きていることにも、死にも
冷い眼を向けて、
馬で通るものは馬を走らせて去れ。(墓碑銘)

イエイツは一つの詩よりも詩を書く仕事と、それをする自分に同じ訓練を施すのを、詩を不純にする道とは考えなかった。彼は詩人も人間であることを固執し通して、その作品が近代詩でも、作品とそれを書く人間の通常の関係を回復したかに見える。それは我々に洗練された象徴詩を書くことが長生きをして、広大な別荘や近所の茅屋で晩年を自適して過すことの邪魔にならなかった支那の詩人達を思わせ、そこにも英国の近代文学というものの性格が窺えるのである。」

イエイツへの言及(2)

「1925年

ここでただ一つの目的というのは、イエイツ自身が最も関心を持っていたアイルランドの独立であって、それを廻って起った内乱を扱った詩なのであるから、イエイツの心も石であってよかった筈である。彼の心が石にならず、石に堰かれても流れるものを感じることが出来たのは、彼が詩だけの世界に満足しないで、彼が彼自身であることを許す詩の境地に達することになったのと同じ理由から、一つの政治上の問題に対する執着で人間が人間であるのを止めること、或はその一つの方向にしか進めない人間になることを拒否した為であると考えられる。ここでも、拒否されたのは人間の分裂、及び分裂した人間のそのどれか一部に自分を限定することであって、このように詩人であることがはっきり人間であることである例は、近代では他にないと見てよさそうである。又、その為に詩的ではない、ただの言葉が詩になるので、それは努めて普通の言葉を使うこととも違っている。

言葉で詩を書く技術を完全に身に付けたことから、詩はその限りでは彼の外にあり、……、近代を前にして腰を据えて生きている人間が出現したということになる。

……従って彼がまだこれを書かない時と、書いた後で同じ人間だったとは言えなくて、その意味で彼はその結果であり、彼の方が先に来るのではなかった。併し同時に又、彼はこの詩を自分の前に置いてはっきり眺めることが出来た。」

イエイツへの言及(1)

『英国の近代文学』と『書架記』より。

「詩は統一。

言葉に沿った、頭に浮ぶ影像はどこへ行ったのか。

或ることの解決を望み、その目的を遂げて理解する。

仕事と自分の関係に就て銘々が自分の考えを持つことを強いられる。

ある仕事をする人間になり、又その人間である為には仕事の対象を愛するという種類のこととは別な、もっとその対象そのものを離れた理由を必要とする。

詩を表現する人間は人間であることに掛けて統一が取れたものでなければならない。

詩人は詩でその結果に接する前にその詩を書かなければならないので、それには分裂と混沌にも拘らず、彼が彼自身であることが必要である。

詩を書くことは言わば、詩人であるよりも先に詩の存在を自分に対して立証することから始めさせられる。

観念としての生命を得るのは、一人の人間と例えばその仕事の上で、抜き差しならない形で結び付いてであり、そういうものである限り、それは真実であって、我々の方はその圏外にあってそれを否定することは出来ない。英語に、或る言葉が真実に響くという言い方がある。

探る方向を充分に知るということ。

神話も自分の一部である。……何が人間にとって自分であるかの問題。

併しこれは、我々の精神のうちで行われる劇の形で繰り返されるので、我々はそれをただ見ているということは出来ない。そこにレダと白鳥がいることを通じて、我々は一つの事件が起るというのがどういうことであるかを知るのであり、それから生じる結果がその結果であって他のものでないのが宿命とか、法則とか呼べるものの作用ではなくて、その瞬間の選択によるものであることを、我々自身がそれをしたことに照して納得する。それは、我々がその何れの瞬間にも当事者であることであって、我々は次に何が来るかをその時にならなければ了解せず、これが重なってその凡てが或る一つのものになって行くのを感じる。今の瞬間が次のを生むので、それ故に例えば、

 How can those terrified vague fingers push

  The feathered glory from her loosening thighs?

の二行でも、詩の一節であるよりは行為であり、従って又それが詩であることを疑わせるものがない。

実際はどうだったのでも、こういう作品から後のイエイツは、ただ普通に言葉を並べるだけでそれが詩になったという感じがする。少くとも、彼が書いた作品そのものはそういう自由を示すもので、それは又、彼が題材の性質に頓着する必要がなかったということである。」

これを英文学講座のイエイツ購読の合間に読んでいたのを思い出す。


昭和33年8月 藤田小女姫(こととめ)氏との対談から

藤田氏は、占いの人である。

「ある具合に非常に納得するとその枠から出ちゃう。いわゆる仏教でいう涅槃に入っちゃう。イエツという詩人の詩からも何か思い当るフシがありますね。」

「ぼくは運命は神々の手にありというんです。ぼくはもう死ぬ年まできめちゃったんです。ぼくにも霊感があったんです。それはもうきまってるんです。だから仕事もきめちゃったよ。」

昭和33年、34年の頃に

吉田健一氏は、「もうやるべき仕事はすべてやった。」「あとは余生だ。」という台詞を吐く。

私が学生の頃のレポートのための記録が残っているから、公開しよう。

すべて、氏の言葉の抜粋だ。何かを感じて戴ければ幸いだ。

2012年2月15日水曜日

まじめな話だけだと

疲れてしまう。

ふまじめでなくても良いけれども、時々ダンスするとかね。

今日は乳母車に入っている二匹の犬をみかけた。

この間は、たくさん猫が乗っているのをみた。

移動が楽だから。

合理的だ。

2012年2月14日火曜日

河上氏ともあろう人が

かつて加藤氏が戦後の帝国大学新聞でこう語った。

言わせて残念、しかし、言われて名誉なことである。

加藤氏は、「知性の働きに蓋をしないで欲しい」と言ったのだ。

返す刀で、小林氏の働きも点検する。

演劇について対談し、晩年の小林氏の宣長論、白鳥論に並走し、自前の見解を提出した。

河上氏には、判っていたのだ。

この人は、前もってさまざまなことが判っていた。

加藤氏は、「なぜ、それを改革精神に差し向けないのか」と問うていたのだ。

さまざまな覚悟の形があるのだと思う。



2012年2月13日月曜日

大切なチョコを雨にぬらさないためには

食べてしまえばよいのだ。

林達夫氏は

「生のエレギアをうたうものはないか」と求めた。

エレギア=哀歌は、生のエレギアであれば、かならずしもエレギアの俗な形式をたどる必要はないのではなかろうか。

エレギアが、世の生の事実をより深く掘り下げ、同時にそこにはない在るべき何物かを描出するのであれば、それは楽しげであったって構わない。

フィクションがフィクションであるということが、つまり非・事実であるということが、生のエレギアにあっては、別の意味をクローズアップさせる。

「事実と真実は相異なり、非・事実が真実を指し示すことがある。」

悲劇を研究した古典学者ニーチェを棍棒で殴って、正気にもどさせるようなものだ。

言霊のはたらきは

飛躍とその補填を主とする。

これは、宗教学の基礎である当為命題の取り扱いの基礎でもある。

事実命題から当為命題への飛躍はいまだにそのプロセスが充分に解明されていない。

これからの人たちの活躍に期待する。

2012年2月12日日曜日

宗教と宗教文学

宗教にかかるさまざまな言説も、文学性を以て、そこにはない何ものかを現成させていく。

それは、事実の措定という一事に関しては、「虚偽」であるかも知れない。

文学の要諦

先日、おさない子どもに文学とは何か、という講義をした。
百人一首を用いた。

源氏物語では、主なき世界を描いた。
そこには、死んでしまって、その人はいない。

百人一首のもみぢの歌5首の中で、もっとも大切なのはをぐらやま、の歌。
そして、そこでは、今そこには居ない人を的確に詠み出すことが為し遂げられている。

ドストエフスキーでは、と次の講義をロシア文学にしようと考えている。

日本語の世界では、掛詞や縁語、係り結び、枕詞などなどで、言葉同士で、二重三重に意味を縛りあう。
たちまちにして、言葉をつむぐ側も、読み解く側も、別な言葉を補足していく。

それは、文学の本来持っている性質の一つである、今そこにはないけれども、そうあってほしい在り方を言葉で現成させていくプロセスと同じ志向性なのだ。

歴史的事実の措定

むろん、歴史的事実の措定を軽んずるのではない。

ただ、教会的価値の中では、文学性の持つ力が極めて有力であって、それをも日常の中で受け容れているのだ。

宗教的価値の扱いは、宗教が異なれば、互いに相矛盾する価値があり、大抵の場合、自らを重んじ、他を排除するものだ。

わたしは、その点において自他ともに対して出来る限り寛容でありたいと思う。

けれども、確かに矛盾はあるのだ。

聖伝と言い伝え

聖伝、というものがある。

そのように教会の中で言い伝えられているお話だ。

聖書に対して、現代では「聖書的表現」という判断による還元が必要であるように、聖伝の中にも文字通り信ずるだけでは、対応しにくいものもある。

歴史的事実の措定に、付加されるフィクション性、文学性が強い力を持っている。


また、習慣的な言い伝えもある。

例えば、病気や障害に苦しむ人間がいるとすると、生まれ変わるときには、その病気や障害が無い状態で生まれ変わる、とされる。

わたしも、今まで生きてきて、まったく服薬していないのはわずかに5年のみという情けない病弱な身体なのだが、これはうまくすると、「次には」そうではなくなるかも知れない、とされるのだ。

案外、それは信仰を支える力の一つであるかも知れない。

2012年2月6日月曜日

前回までで、一応完結しているので

余談。

わたしが占い師として生計をたてるとすれば、水晶玉をなでた途端、頭に布をまいた魔法使いかなんかでてきて、わたしがくしゃみをすると消えちゃう。

で、占いはどこへ行ったのか。わからない。少し弱気な占い師だ。

見料は取るけど、占いはない。そして、ツルっとして、ボワンとでてきて、ハクションで、ヒューと消えてしまう。

いいね。気楽で。

2012年2月5日日曜日

日本という大きな家族の問題

我が国においては、島国ならではの、均質等位の国民による国がある、という仮定が続いている。

日本という大きな家族の問題だ。


ここをスタート地点として物事を考えると、そう考えなくてはならない立場の人間たちは、常に苦しいのだ。

それでは救いはどこにあるものか

ハローキティ&こけし 青森りんご。

光センサーによる糖度・果肉保証。

津軽系こけしの写真入り説明付き。

ちなみに、キティからのメッセージあり。

     私はハローキティ。

        身長はリンゴ5個分よ。

        私の体重はリンゴ3個分よ。

これでいいなあ。

学問の価値

第一の批判者は、営々たる仕儀の中に学問の価値の応用を認めた。
したがって、学問の方法を用いなかった。

第二の批判者は、学問の価値の中に差異を設けようとした。
正統性の付け替えが必要となった。

それでは、最後の批判者は何をすべきなのか。
それは、多くの人心との親和だ。

2012年2月4日土曜日

残余をさがして、自分が達成すること

それが、河上氏が語った「個人的な」理由だ。

理想的な教師であり続けるという方法をとらずに、営々と事態をしのげるという方法を批判してのことだ。


時代はかえて。営々とした方針に、理想的な教師の在り方をとりいれようとした。

しかし、そのためには、従来の理想的な教師の在り方は批判的に第二義的以下の扱いにしなければならなかった。



理想的な教師

愛情と全幅の信頼を集め、方法を持ち、自分自身も常に学び変わりつつある人物。

可塑的にできる限りにおいて完全であること。

それは理想のひとつの極点であると言える。

さらさらと解ける

ぽわんとした気持ちで詩を作るのと、現代詩を作ることとは一致しなくて、現代詩をぽわんとした気持ちで書くときが来るとは思っていなかった。

キューピー すりおろしオニオンドレッシング のコマーシャルは面白い。

何も現代詩は「現代」である必要はなくて、ただ、「詩」であって良いので、それなら、詩をぽわんとした気持ちで作ることになるだろう。

三人のタマネギ頭の女の子が出てきて楽しそうだ。

これはぽわんとした詩だ。

こんな感じで詩を書きたい。

でもわたしは詩人ではない。

詩を作らない。

モチーフだけが宙に浮く。


宙に浮いたモチーフは、案外こころのおくそことつながっている。

すると、詩になる前の段階がじかにこころのまま、というときもあるかもしれない。

モチーフで自分のこころが、わかる。

何かな、と思ってすらすら解けてしまう。

2012年2月3日金曜日

メモ

数の話をはじめる。

1.コンパスと定規を使った作図

2.幾何学のはじめ

3.がんばっている子どもたち

2012年2月2日木曜日

不二家のマークは

はしっこが、クルクルまわる。

オバQのQは、はねてひっくりかえる。

善と悪とがぶつかると大きな星の形の火花が散る。

そんないくつかの簡単な約束事が、簡単であればあるほど、場になじんでいる。

指をならす、黒ヒョウやジュラルミン。

場外にヒョウタンツギ。

けれどもフィクションの世界がそうあるだけではなく、現実世界の中の価値、とくに文化的価値の性質の良いものは、そんな感じだ。

あとはそれを把捉するか否か。

ふたたびペコちゃん

ペコちゃんとオバQとパーマンと怪物くんは友だちだ。

知ってますか?

雪の詩

学生時分にゆきの詩を書いた。

あんまりロマンティシズムをしのばせると、お里が知れてしまう。

雪の多いところに暮らした友人は、「絶対に雪の詩など書かない」と言っていた。

そうだろう。そんなものだ。

2012年2月1日水曜日

ペコちゃん友の会

友の会にはいって、年賀はがきを買った。

ペコちゃんとポコちゃんが写っている。

にっこりとわらっている。

おもてをみると、干支の辰くんが、ペコちゃんの眼をして、ペロっと舌をだしている。

ペコちゃん辰だ。

ゆきだるまの表情

天気予報にゆきだるまが出ている。

口がついているものもあれば、ついていないものもある。

今は寒いから、苦しい地域がある。

ゆきだるまは笑っていてはいけないのだろう。