2012年2月16日木曜日

イエイツへの言及(1)

『英国の近代文学』と『書架記』より。

「詩は統一。

言葉に沿った、頭に浮ぶ影像はどこへ行ったのか。

或ることの解決を望み、その目的を遂げて理解する。

仕事と自分の関係に就て銘々が自分の考えを持つことを強いられる。

ある仕事をする人間になり、又その人間である為には仕事の対象を愛するという種類のこととは別な、もっとその対象そのものを離れた理由を必要とする。

詩を表現する人間は人間であることに掛けて統一が取れたものでなければならない。

詩人は詩でその結果に接する前にその詩を書かなければならないので、それには分裂と混沌にも拘らず、彼が彼自身であることが必要である。

詩を書くことは言わば、詩人であるよりも先に詩の存在を自分に対して立証することから始めさせられる。

観念としての生命を得るのは、一人の人間と例えばその仕事の上で、抜き差しならない形で結び付いてであり、そういうものである限り、それは真実であって、我々の方はその圏外にあってそれを否定することは出来ない。英語に、或る言葉が真実に響くという言い方がある。

探る方向を充分に知るということ。

神話も自分の一部である。……何が人間にとって自分であるかの問題。

併しこれは、我々の精神のうちで行われる劇の形で繰り返されるので、我々はそれをただ見ているということは出来ない。そこにレダと白鳥がいることを通じて、我々は一つの事件が起るというのがどういうことであるかを知るのであり、それから生じる結果がその結果であって他のものでないのが宿命とか、法則とか呼べるものの作用ではなくて、その瞬間の選択によるものであることを、我々自身がそれをしたことに照して納得する。それは、我々がその何れの瞬間にも当事者であることであって、我々は次に何が来るかをその時にならなければ了解せず、これが重なってその凡てが或る一つのものになって行くのを感じる。今の瞬間が次のを生むので、それ故に例えば、

 How can those terrified vague fingers push

  The feathered glory from her loosening thighs?

の二行でも、詩の一節であるよりは行為であり、従って又それが詩であることを疑わせるものがない。

実際はどうだったのでも、こういう作品から後のイエイツは、ただ普通に言葉を並べるだけでそれが詩になったという感じがする。少くとも、彼が書いた作品そのものはそういう自由を示すもので、それは又、彼が題材の性質に頓着する必要がなかったということである。」

これを英文学講座のイエイツ購読の合間に読んでいたのを思い出す。