2011年12月30日金曜日

歌合戦で負けて

失意のうちに亡くなった。

それで、歌はのこってなかなか良い歌ではなかったか、などと取りざたされる。

歌の選集はその光と影とが彩りを添えるということになろうか。

百人一首もやはりもののあはれ、の世界ではある。

コトバの指し示すもの

意味の深みを感じるうたは、おしなべてコトバを失う世の悲惨を傍らにともなっている。

そして、それにつづくのは、その類の価値をそのまま敷き写しにするか、一旦途絶えて再び動き出す兆しを仮定するかの表現となる。

悲惨が表現にとっての契機となる。

表現する行為そのものが悲惨にもなるだろう。

ナトリウムとカルシウム

運動したあとに、消費を補っておくべきものはこの2つだ。

塩分は良く知られている。さらに、カルシウムも必要。

2011年12月29日木曜日

3歳・2歳のおそらく年子

お姉ちゃんと妹とお母さん。

お姉ちゃん乳母車に大きなウサギのぬいぐるみを載せて前を歩き居り。

もう一台乳母車があって、お母さんは妹を乗せようとするも、断固として拒否。

泣き出した。

しかたなくお母さんは左手でカラの乳母車、右手でチビちゃんをひいて歩き出したがチビちゃん大ぐずり。

事態明白。

チビちゃんも乳母車を押して歩きたい。お姉ちゃんだけズルイ。



年末の街中に

ほっぺたがふにっとした赤ん坊がうじゃうじゃいる。

ご機嫌そうな子もいるし、泣いている子もいるが、昔に比べれば、なんだか子どもの服装や乳母車がぬくぬくとしているような気がする。

でも不況なのだ。

今日はずいぶん出会った。

フォークロア

民俗の中にコトバを求める。

それを手続き的知識と宣言的知識とに分類する。

そういう地味な努力の積み重ねから、モノとココロの関係を調べる。

これは面白い作業だ。

システム論の視座

1990年代以降システム論の発展は、おもに最適化理論のもたらす成果を政治・経済・文化の個々の領域に反映させることによって為し遂げられてきた。

1980年代以前のフォード・サイクルの効率化を最適化に変化させる。
これがシステム論自らのおびる性格であり、同時にシステム論発展の成果のおびる性格でもあった。

21世紀になってから、次の目標は何になったのか。

福祉・医療・教育の分野では、とくに前の2つの分野では経済的効率性の徹底が露骨に明らかな目標となってきた。

比較すると、教育の分野では、福祉・医療の分野の変化を横目でにらみつつ、経済的効率性を「徹底させない」という逆向きの努力が成立してきた。「徹底させなくても済む」と言ってもよい。

このことの克服だ。

2011年12月28日水曜日

いかに生きるべきか

道徳的知識も宗教的知識も、なぜか手続き的知識から出発しないで、いきなり宣言的知識から入る。

そこで、指導者は「まず形より入れ」と手続き的知識に基づく手続き的振る舞い=動作に人を引き戻す。

それは身体の運動としては、自然な振る舞いから機械的な振る舞いへの引き戻しになる。

この引き戻しの過程で確認されるギクシャクしたありようの実態の解明こそが、日本における戦後の教育理論の重要な基礎となっているのである。

気づき、や学び、より気づけ「ず」、学べ「ず」の方の過程の具体的なありようの中にこそ宝があるのだ。

さて、ロゴスのありようとは別に

西田哲学以来、主客合一の延長はすでに我々の手に入った。

そして、「主」とは交渉を持たない、価値の自発的形成が次の対象となった。

さらに、「主」の方も自発的「発生」の過程をたどって形成されたのではないか。

ALVA NOTO氏は

もとプレハブシステムの技術者を16年間やっていたという。

そうなのだ。

ユニットによる構成と反省と再構成が具体的なモノへの意識の具体的な軌跡の実態なのだ。

それがロゴスの本来的な機能の実態でもあるはずなので、ロゴスの構成が音の随伴によって検証されるときに、音が構成される軌跡に相応するロゴスの構成が、世の中のどこかにあるはずなのだ。

創造というよりも発見。

予想されたスタイルのロゴスの発見が求められているのだと思う。

もうひとつの試み


坂本龍一氏の周辺では、1999年の段階で「LIFE」というミュージカルの試みもあって、旋律、ノイズ、そしてロゴスの相互関係についての認識は成熟しきっている。

我々の受け持ちがロゴスの所在およびその価値の確認であるとすると、例えば鮮明に思い出すのは、ハイデッガーの「火だ」という発言なのである。

20世紀の総括として、やはり否定的契機につながるロゴスの方が強烈な印象を残している。

それでは、肯定的契機につながるロゴスとは、どのようなものだったろうか。

ここに、影をくぐりぬけて光のある方へという、本来的な志向性があるはずだ。

ALVA NOTO 氏と坂本龍一氏とのコラボレーションの営みがある。

2011年12月27日火曜日

「折々のうた」以降

大岡氏・一柳氏らによる「ベルリン連詩」には日独合作の音を聞いたように思ったものだ。

あの活動の努力の志向性は、今どこに活きているのだろう。

詩人は静岡に隠棲しているという。

氏に続く世代もまた隠棲してしまっていてはなるまい。

日本語とドイツ語と

まず高橋悠治氏の『カフカノート』について。

病に倒れ死に瀕するにいたったカフカのことばに、その比較的注目されてこなかったことばの断片に、作曲者が音を付しつつ、考察を積み重ねていく。

カフカ自身の作品では、例えば『変身』では、虫に変形したザムザの行く手をはばんだのは、ヴァイオリンの音だった。しかし、高橋氏はむしろ音を作家の心底に寄り添わせることによって、言葉自体がその行方を指し示し、進もうとしたであろう可能性を、音の次元において開いて行くのだ。

2011年12月23日金曜日

趣味

定家氏が百首を集めたのは趣味の範囲の内であるのだろうか。

それならば、ふすまにはろうが、びょうぶにはろうが、自分の山荘で何をやっても自由なことだろう。


趣味人が自由にやっていた選択を、他人が持ち出した。

例えば宮澤賢治氏の手帳から「雨ニモ負ケズ」が公開されたように。

それならば、そもそも百人の選び方がどうのこうのと語る方がおかしい。


歌人にとっては、歌を取り扱うのが仕事であった。

そういう専門家が趣味で(もしかしたらね)集めたことが、官撰並みに受け取られて、千何百年たっても、読まれる。

子どもにまで読まれる。

そのことがよいのだ。

定家氏のくわだて

定家氏は自分の山荘で百人一首を選んだのではないか、と思われているそうだ。

選ぶ作業を行ったのが小倉山だから小倉百人一首。

ま、わからぬ。


選ばれたうたは、当時把握できる限りでの古代以来の「秀歌」が選ばれたのか。

それとも定家氏好みの百首が選ばれたのか。

そのいずれが主であるのだろうか。


百首のうち三人が天皇、五人が院。

しかし、この院の面々は、どうも晩年が不可ない。


平安、鎌倉初期のなまなましい政争の影が消えていないころに、あえて院のうたをも百首の中に盛り込んだ。


だから、比較的、世の中のことを気にしない、公平な判断だといえるのか。

あるいは、世の中に配慮して、そのときそのときの主流派、反主流派のいずれをも含む、という意味での公平さなのか。


歌の持つ価値、力しだいで政治とは関係のない歌の世界だけでの自律的判断をしたのか。

下手な、あるいは面白くはない歌であっても詠み人の選人を優先させたのか。


知れぬことだ。


知れぬことだが、ここをおいて、我邦の文化がどうのこうのといってもはじまらぬ。

メモ

小倉百人一首ものぞいてみれば奥の深い世界で、鎌倉時代に成立して以来、生き残ってきたからには、何か特別な魅力がそこにあるものと考えられる。

けれども、「わたし」がそれをどの程度にまでわかっているのかは疑問だ。

2011年12月22日木曜日

何が足され、何が引かれているのか

社会人になった者は、世の中に適応しようとする。

そして、そこで、何もかも今までどおりというわけにはいかなくなるから、世の中にあわせて自分を変える。

さて、今、この年齢にいたるまで、何が足されて、何が引かれたのだろう。

どうなんだろう。

2011年12月21日水曜日

歳末

ゆうがた、デパートの地下におでんを買いに行った。

キタノコレクション、愛知でつくっているようだ。

かかりの人に、入荷したら連絡してくれるよう頼んでおいたのだ。


デパートには、近所に住んでいる人や、勤め帰りの人が来ている。

お菓子のコーナーより、お惣菜のコーナーの方がにぎわっていた。


寒い時にはおでん。

2011年12月20日火曜日

謎解きはディアナのあとで

映像化不可能な4巻組のドルリー・レーンシリーズにおもいをはせる。

エラリー・クイーンだ。

主人公はシェイクスピア役者。

この連作の特徴の一つは、前2作はヒロイン不在、後2作は別の意味でヒロイン不在という点である。



北川景子氏は時代劇で観たことがある。

藤沢周平作品だった。

テレビドラマでは軽妙な存在。


ドルリー・レーンには、この性質を加えればよかったのかも知れない。

おでん

先日、デパートの地下で袋詰め出し入りおでんを買った。

おいしかった。

そして、今日は紀文のおでんセットを買ってきた。楽しみだ。


旅番組を観ていたら、本当にていねいに仕込まれたおでんが紹介されていた。

味噌味で、ご当地でしか食べられないのだそうだ。

おでん探しの旅も楽しいだろう。

この季節

晴れれば寒い。

やたらに歩くので、汗の始末も考えて、最高気温と最低気温とは予報でみておかねばならない。

朝4時台に起きて、6時半に歩き始める。

ちんたらと。

ときどきジョギングするおじいさんやおばあさんが追い抜いていく。

向こうから走ってくる自転車乗りのメンバーは時刻によって決まっている。

お互いに出会う場所で、早い遅いがわかるので、ときどきあわてる人も見受けられる。

こちらも急ぐことがある。

もっとも歩く方では、急いだところで、7キロあたり縮められるのは5分程度だ。

2011年12月19日月曜日

リュックサック

ミネラルウォーターの景品で当たったリュックが14年にしてチャック大破。

バーコードを集めて送ったのだ。インドネシア製だった。

長持ちした。片道1時間40分の徒歩往復通勤などというのにも良く耐えた。


登山用品店に行った。


30リットルのデイパックを買った。

ただ、普段デイパック、と言ったことがない。

それに容量をリットルで計るのも、この間まで知らなかった。


新しいのにも満足。


2011年12月18日日曜日

猫はどこがかわいいか

猫って舌がザラザラしてるところがかわいいのさ、といった。

ええっ?きもちわるい、といわれた。

ショックだなあ。

まあ、ひとによって感じ方はちがいますけどね。

ダ・ヴィンチと焼きうなぎ

grilled eelだそうだ。最後の晩餐の修復の結果見えてきたとのこと。

江戸っ子だってね。神田の産れよ。

ちはやふる

『ちはやふる』良し。

チビ公に頼まれて最新巻を買った。

ひそかに第1巻を購入。

自分の夢をもちましょう、というテーマ。

さわやかなものである。

2011年12月17日土曜日

アドルノ

「では、いったいどうしたらベルクソンと印象主義を結びつけられるといった類の教養が得られるというのですか」(「哲学と教師」2011原、小田、柿木訳)

この問いの設定は的確だ。

そして、わたしたちは、これに答えをつけなくてはならないだろう。

映画

一番よかったのは、デジタルな方法で足りなかったところは、アナログで補ったところだ。

CD組モノ

先日友人が、バッハの100枚モノの廉価盤を買ったけれども聴いていないものがほとんどだ、と言っていた。

思い当たることがあって、サンタクロース10枚モノというのを3年前に買ったが、まだ2枚しか聴いていなかった。

好奇心の衰えと、「廉価」への甘えがあるのかも知れない。

ものを大切にしないようでは不可ない。

ドバイのラクダ

ミッション・インポッシブルを観に行った。

よかった。

ヒロインが、木村佳乃氏にどことなく似ていた。

雪の華

ふとした拍子で、この曲を聞いて、聴き直してみた。

静かななかに情念のことばが込められていて、現代の音楽ではめずらしく、小さなささやきが大きな力をもってくるような曲となっている。

そこにこの唄声が加わる。

ひとの想いのうたなのに、季節をうたい、季節にとけこんでいく。

2011年12月16日金曜日

アリエッティ

この映画は、小さなこどもたちと一緒にみた。

それで、自分がどう思うかとか、どう感じるかとかいう前に、どのくらいわかっているかなあ、とひとのことが気になっていた。

人間と小さな人間たちとの価値の共有の物語なので、それでよかったのかも知れない。

髪の毛を洗濯バサミみたいなものでとめているのが、印象に残っている。

家族モノは好きだ。

サザエさんやオバQや巨人の星は、皆お茶の間から外に飛び出していく。

ストーリーにもし強い意味がなくても別にかまわない。

借りぐらしのアリエッティ

佐藤さとるのコロボックルシリーズを読んだことがあるだろうか。

とても良いですよ。

作者は、ものにも心があるという。

正確には、モノにはそれを作ったひとの心が込められている、という思想だ。

わたしは、幼いころにその考え方にふれて、とてもよかったと思っている。


この映画も、そんな考え方の延長上にあるような気がする。

2011年12月15日木曜日

サラ・ブライトマンのO Holy Night

教会で歌っている。

これがよい。

明日は

ミッション・インポッシブルの最新作の公開日。

楽しみにしている。

今のところ、第一作が一番好きだ。

2011年12月14日水曜日

つらつらと

思うに、言葉と納得との関係は、言葉のあらわす内容を反省し、くりかえし考える中で変成していく。

それなら、変成を待たぬやり方はどうだろう。

「随筆」の方法だ。

言葉によるものごとの動きの表現を思索そのものの表現とみるのだ。

差異を近似的に無視するのだ。これでしばらくいこうか。

『69億のクリスマス』

帰宅途中に本屋で入手。三谷知子(みたにともこ)著。

しゃれた話で、実に軽妙。

最初「サンタにともこ」さんかと思った。

2011年12月13日火曜日

ブログで推薦したことばに

翻訳の誤りがみつかり、あわてた。

助祭が牧師になっていた。

文章がまとまっていて、よかったので、残念だ。

2011年12月12日月曜日

諭吉会例会

今夜は諭吉会。

一人は言う。「目的に達しようとすれば、必ず誰かとぶつかる。」

一人は言う。「写真を撮ろうとするときは、対象にのめりこんではいけない。いったんまったく関係ないところに気持ちを離してから、また向かわないといけない。」

一人は言う。「緩和ケアには2種類ある。覚悟をした人向きのものと、なんとか方法をさがしてみようとする人向きのものと。」

持つべきものは友です。

このブログ

設定のしかたがおかしいのか、さまざまな検索エンジンから検索することができないようだ。

google会員制のクラブみたいになっている。

おもしろい。

2011年12月11日日曜日

不景気下の同窓会

さすがに話題がいつになく政治、経済に集中した。

デフレ、インフレが高齢者層、現役公務員、若年層にとって、有利か不利かという判断もあった。

さて、具体的には、「われわれの」戦術はどうあるべきなのか。

最初は

アシモフの黒後家蜘蛛の会みたいになればよいと思っていたのだが、給仕のヘンリーはいないし、われらもあまり機知に富んでいるわけでもなく、野郎の食事会になってしまう。

あんまりぱっとしないのかも知れない。

同窓会

年に一度料理屋で昼食を。

自営業2人、公務員3人。

年齢だけが同じだ。

ふだんの宴会では仕事の話をなるべくしないが、同窓会では仕事の話になる。

なぜだろう。

最後の1行

むかしの映画のレビューを投稿していた。

或る人がコメントをつけてくれた。最後の1行で何かを要約しますね、と。

考えてみると、最初の1行でそうすることもある。

やり方を見抜かれるようでは、駄目だ。

スキだらけだ。

出張先の宿で

街中の宿で、浴室とクローゼットとベッドルーム。

テレビが1台あった。

小型で、スイッチをひねるといくつかのチャンネルに表示が出る。

地上波が使えなくなる数日前だったからだ。

家では観ることのない、その土地の放送局の番組があった。

明日には自分には関係のない天気予報が流れていた。

これはいい。

音楽

救いです。

映画

ずいぶんと画像の精度があがってきていて、テレビ画面でVTRが観られるようになり、いまではDVDを観ている。

最初は撮る側だったのですよ。学校の授業を。

授業分析というのをやっていて、カメラをかついでいって、教室の1、2、3方向から撮って、あとで、それを編集する。

検討会で使うのだ。

あるとき、若い人から映画の見方をおそわって、それで、映画分析を趣味とするようになって、それだけが残っている。

洋の東西、古今を問わずなんでも観る。雑食系だ。

先輩には、ミハルコフとタルコフスキーを徹底して読め、と言われ、苦労した。苦労が今、快楽となっているので、これもまた不思議なことだ。

ここ数年で心を強く動かす映画を何か観ましたか。

若い時分には、酒の中にひたっていて、のべつまくなし、ひっきりなしに飲んでいたものだが、いまではすっかり量が少なくなった。

ほとんど頭が酒の方に向かないのですよ。

酒の方もかわってきていて、ジョニ赤、ジョニ黒などが関税のおかげで安くなって以来、スウィングやシーバスリーガルが飲めるようになり、今では、15年物、21年物、ウシュクベーなどと昔は手が出なかったものが、通信販売でも手に入る時代になった。

けれども、こちらの身体が求めなくなってきたといえる。

衰えですかねえ。

今やっていること

あれこれと雑事にまぎれてやろうと思いながらできなかったことを、少しずつやっているのだ。

きょうは、はじめて携帯電話を契約した。

銀色の本体で、てのひらに収まる。

自分の携帯を持つなんて考えてもみなかった。

なんだかねえ。時代に迎合したような気がする。

母と妹と姪っ子にかけてみた。

それで終り。

他の3人は家族割(?)だが、自分はそうではないらしい。

まあ、それでも交流の便利さという点では進歩なのだろう。

2011年12月10日土曜日

これからの時間

無為と有為との違いがあるでしょう。

それでも物理的時間は共有しているわけです。

不思議ですね。

今みることのできるのはこれから先の時間だが、そこに何を託すのか。

たとえば、今も世界はかわりつつあって、国民国家の単位が危うくなっている。

その運命にわれわれが立ち会える時間は、すくなくなってきているのだ。

何をみるかが、何をするかということと同じ意味を持つのは、案外、不自由なようでいて、自由の極致でもあるのだ。

どう思いますか。

四半世紀

あれもこれも四半世紀過ぎた。

無為の時間だった。

あなたはどうですか。

為し遂げておきたいと思ったことを、やってこれたのだろうか。

それならば、よいではないですか。