2014年8月31日日曜日

いかに生きるべきか(2011年12月28日)

道徳的知識も宗教的知識も、なぜか手続き的知識から出発しないで、いきなり宣言的知識から入る。

そこで、指導者は「まず形より入れ」と手続き的知識に基づく手続き的振る舞い=動作に人を引き戻す。

それは身体の運動としては、自然な振る舞いから機械的な振る舞いへの引き戻しになる。

この引き戻しの過程で確認されるギクシャクしたありようの実態の解明こそが、日本における戦後の教育理論の重要な基礎となっているのである。

気づき、や学び、より気づけ「ず」、学べ「ず」の方の過程の具体的なありようの中にこそ宝があるのだ。


我が国に必要な論理には肯定的論理と否定的論理とがある。

2014年8月30日土曜日

さて、ロゴスのありようとは別に(2011年12月28日)

西田哲学以来、主客合一の延長はすでに我々の手に入った。

そして、「主」とは交渉を持たない、価値の自発的形成が次の対象となった。

さらに、「主」の方も自発的「発生」の過程をたどって形成されたのではないか。


神は最も優れた人工的造形なのか。

価値の自発的形成。

受容者の自発的「発生」。


宗教学における現象学。

一般心理学における主体の確定。

2014年8月29日金曜日

概要(2011年11月18日)

生きるものは、はかない。そのはかなさに抗して、はかなさではない何ものかを確認しようとする。

生と死の価値の再認識は、確認の過程と確認を通過した後のどうしようもないはかなさへの立ち返りの過程をそれぞれ意識的にたどることだ。

生の再認識も、死の再認識も、いずれはかなさの圧倒的な力に引き戻される。

人は常に重力を受けている。いずれ地に伏すべきことを約束する重力を。


このことを、既出のタルコフスキー論に合わせても、宗教論に合わせても、音楽論に合わせても根本の課題は変わらない。

2014年8月28日木曜日

さあ、探し始めよう

いままで、さんざんロシアの学者、芸術家でなくては把握することができなかった対象を並べてきました。

それでは、日本のそれらはどのようなものでしょうか。

2014年8月27日水曜日

ロシアの大地に根差した叡智

タルコフスキー監督の『鏡』は子の視線から見た母の像の集成であるとされています。

しかし、背後に監督の父、この人は詩人ですが、詩も使われています。

まことに、そこにロシアの大地を再構成する基本単位があります。

2014年8月26日火曜日

時の再構成

時の再構成の問題に立ち返ることになります。

歴史の歴史学的見直しについては、アナール学派の仕事が名高いものですが、まず史家の通常の歴史構成に対して、もっともはげしく抵抗したのは文芸批評家の小林秀雄氏だったでしょう。

小林氏は歴史の再構成には死んだ子どものことを思い出してやまない母親の精神が必要であることを主張し、さらにはベルクソンの時間論にならって、時の分岐点でOからAにすすんだ移動は、実はOからBにすすむこともできたものだ、といった可能性の並存を否定しました。

アナール学派の仕事に比較して、さらに付け加えるべき条件は、人の認識や言葉の獲得の過程での社会性の反映についてです。人は社会の中で社会的に認識を豊かにしていきます。学習を前提として持たない認識の発達はありえません。

タルコフスキー氏が、映画製作の中で呈した時の再構成の具体的方法には、必然性個別性と社会性とが両立されていました。これはロシアの大地に根差した叡智であったと言えると思います。

2014年8月24日日曜日

ゴルトベルク

一気呵成。

バッハの一解釈です。

マリア・ユージナ氏のバッハ平均律

平均律の抄録とゴルトベルクです。

力強いタッチの音が録音されています。

ときどき低音の左手の音が大きくなります。

美しい。

 

2014年8月23日土曜日

存在論から認識論が生まれる

絶対者を観なければならないし、音を獲得しなければならないのです。

切実な必要性があります。

2014年8月20日水曜日

浮かび上がる像

およそ、存在論というものは、浮かび上がる有形無形の「像」あるいは「形象」の在り方の問題を中心としています。

信仰に関しても、一般的な認識論に関しても、存在論がそれぞれ相対する一組の片割れとなって現れます。

音の世界でも同様のことが言えます。

もっとも、音楽史では、信仰のための音楽から音階、通奏低音などが発生しました。考え方によっては、存在論から認識論が生まれたという相互補完の考え方ができるかも知れません。

2014年8月17日日曜日

モーツァルトとの向かい合い

焦点は、複数の達者な奏者における演奏の共通性=普遍性であり、その性質を成立させている前提として、解釈者としての奏者と向かい合うある存在の正体です。

最近参照したヴィルサラーゼ氏の録音にはジャケットにモーツァルトの肖像が描いてあります。

志向する先に相対する存在にかかる存在論が、最後の問いとなります。

別の話になりますが、日本の象徴主義詩人中原中也氏は、創作においては呼吸の呼気ではなく吸気が重要だと言い放ちました。受容が発語を構成する。このことは音に関しても同様のことを仮定することができます。

ヴィルサラーゼ氏の「そこ」にある音の特性とは?

そしてモーツァルトの存在の正体とは?

2014年8月16日土曜日

ピアノ協奏曲第11番

モーツァルトのピアノ協奏曲をヴィルサラーゼ氏で。

鮮烈な音で、かつてリヒテル氏のモーツァルト解釈について考えていたころのことを思い出しました。

モーツァルトの音のベストコンディションに奏者のピークをあわせていきます。

評者の中にクララ・ハスキル氏のものと比べる人がいましたが、無論別種です。

2014年8月15日金曜日

ヴィルサラーゼ氏のKV457

第1楽章。

軽快な躍動感があります。1995年1月ミュンヘンでの録音です。

Live Classicsレーベルです。リヒテル氏らの録音も数多く発表しているところです。

第2楽章。

対象に対する構成力と構想力とが感じられます。存在論と認識論と。

かつて河上徹太郎氏は、音の美の構成に対して再現と再認の果たす役割を説きました。

第3楽章。

モーツァルトの出したソナタ形式の結論部分です。

2014年8月14日木曜日

ヴィルサラーゼ氏のKV475

緩やかなフレーズに抑えと溜めとがあって容易には転調部分には到達しません。

作曲者の創作に相対して解析されているのは、創作を受容し噛み締める者の側の足取りでしょう。

それならば、志向性の矢はどちらに向けられるのでしょうか。ほら。双方向ではないでしょうか。

それでは、堂々とまかり通っているものは何でしょう。

2014年8月7日木曜日

『ペテルブルグ』

アンドレイ・ベールイの『ペテルブルグ』。

翻訳家である学兄は、未見といいました。

「あの時代は銀の時代。私はまだ読んでいませんが、豊かな時代だったはずです。」

レフ・ヴィゴツキーが愛読していたと聞き、注目しました。

2014年8月6日水曜日

ゴールデン・スランバーを

ゴールデン・スランバーを高橋アキ氏の演奏で。

珊瑚枝枝月を撑著す。吹毛剣の様態です。

それは静かな境域です。けれども「吹毛剣」です。

ここに志向性という通常のタームは少し手を加えられて、「何ものかをひっかけて手許に戻ってくる」意識の性質を指し示します。

志向性が発現します。瞬間ふっとかき消してご覧なさい。

天地の運行法則がそこにあります。

志向性

ロマンティシズムに陽光があてられる、あるいはクライレスリアーナに何ものかの「達成」への意図がある、といった弾く前の曲想に対する弾き手の保持する構造が、演奏の志向性を形成します。

ここで、ウズナーゼの仕事が思い起こされます。なぜでしょうか。

2014年8月5日火曜日

ヴィルサラーゼ氏のショパン

個としての最小限度の空間から音を発するときに、たとえばリヒテルの対比奏法を用いれば、空間の内外で強固な外殻の突破を図ることができます。

エチュードとポロネーズをそれぞれ1曲ずつYou tubeで視聴しました。

楽譜の中のある簡素な推移に意味を与えるのには別のスタイルがあります。

エチュードとポロネーズとが同種の空間に溶け込みます。

氏の弾くチャイコフスキーに陽光が射すように、ショパンの曲の核心部分に陽光を向けるのです。

外殻を破らないままに。

2014年8月3日日曜日

子どもの自己中心的言語

ピアジェの命名した子どもの「自己中心的言語」の重要性はすでに児童心理学の世界で十分に認識されています。

これはいずれ内言へと変化する発達段階の一過程および一様態を形成するものですが、音の学習に関してはまだ解明されていないことを課題として残しています。

音を演奏するという行為は、内に向かって考え続ける過程と、外に向かって他人に聞かせるために働きかける過程と双方を含んでいます。

そもそも教師が子どもにある指示を与えて子どもが指示に従った振る舞いをすることが可能になった瞬間に、子どもは次のステップに向けての成長を始めるので、そこでは内化される過程が存在するだけではなく、内言に似た世界の中で価値が独り歩きを始めるのです。音によって表現可能な領域が広がります。

あるいはこうです。通常の言語に関しては、外言→自己中心的言語→内言の過程を把握していれば言語発達の過程についてはある程度の議論ができます。しかし、音についての認識は、言語の外に音という実体化したモノを併存させているために、演奏者一般は、この言語と音との相互補完の現実を意識しなければ対象化できません。音だけで「考える」ことができますしね。

言語における認識や表現とは異なる音における認識あるいは表現があるのであって、音があるときには外言に相当し、あるときには自己中心的言語に相当し、あるときには内言に相当して、それらの間にある境界は言語の場合に比べて不分明です。

さて、自己中心的言語に相当する音とは?







 

2014年8月2日土曜日

教師が子どもに

教師が子どもに弾き方を教えるときに、「〇〇のように」弾く、柔らかく弾く、といったコトバが用いられます。

これは、形式としては「例え」に属するコトバです。

しかし、弾き方を教授するときには、実質的指示を意味するコトバです。

教授効果が認められるので世界中で用いられています。

さて課題があります。

第一に、コトバはコトバであり、決して音ではありません。

第二に、子どもが教師の指示を教師の意図する通りに理解した場合、そこに再現される音とは何を意味するものであるかということです。

前者については、以前徹底して考えたので省略します。

後者については、古賀メロディーの悲哀表現をギターと歌詞とで再現する子どもや、コルトレーンの枯淡の表現を再現する子どもの例があります。つまり、悲哀なのか悲哀もどきなのか、枯淡なのか枯淡もどきなのか、です。

でも、モーツァルトが神童とみなされた理由の一端には、高い演奏技術があったといいます。

渋い表情でジャズを奏でる子どもの演奏家が、悲哀のような枯淡のような音をもたらしても、それは、「かのような」の範囲内で成立する価値です。「かのような」でもふつうはあまりありえないことなので、神童、と評価されるのです。

ウズナーゼ心理学

ドミトリー・ウズナーゼ派の心理学のことを想起しました。

「構え」に重点をおいた心理分析でロシア心理学の中でひとつの流れを形成していたものです。

弾く前にヴィルサラーゼ氏が黙然として音に想念を走らせます。

あるいは想念を模した何ものかが音として結実します。