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2021年6月28日月曜日

無、を使いこなす

 無、を使いこなしたいものです。

汎ー時間のスタイルであると、「無を用いない」という条件故に、ひどい自己犠牲を強いることになります。

例えば、吉田健一氏は、小林秀雄氏の水準の乗り越えに成功しましたが、この方法では、小林氏の認識のループからは、小林氏自身は脱却できません。

無、を使いこなしましょう。


2021年6月26日土曜日

2018年5月21日月曜日

寒暖差と音

寒暖差の大きな日に音を聴くと、いつもとは違って聞こえます。

それは、きっと、音を補正しようとするからです。

聴覚が当たり前の方に一切を引き戻そうとするからです。


祈りの場合も同じことでしょう。

2017年7月29日土曜日

ヴィルサラーゼ氏の日本公演シーズン開幕

独演会を聴きに行きました。

今期は、日本各地でシューマン中心のプログラムを展開する予定のようです。

ロシアピアニズムの近代と現代、シューマン作品の中のモダンな表示の解釈による拡張、と、そこには、音の存在と新しさとの関係が見て取れます。

2015年6月9日火曜日

詩は必要か

先達である大岡信氏は、「歌学」を家の学問として受け継いでいました。

これに対して、わたしたち信仰者は宗教の価値を受け継いでいるのです。

歌学に含まれる詩の世界の価値も大切なものですが、その大切な価値が存在しようとしまいと信仰の価値は生きています。

人が「生きている」ということと等価値の信仰の価値からみて、詩の価値がどのように把捉されるのか。これは、キリスト教の世界では詩篇の取り扱いをみないとわからないものです。

2014年9月8日月曜日

ヴェルトフライハイトと主の栄光

3種類のヴェルトフライハイトについて。

学問は現実に直接に関与すべきではない。

学問が独立した価値を保有するからこそ、学問を根拠とする者は積極的に現実に関与しなければならない。

学問の到達した真理を一掃する政治的選択の自由を確保すべきである。

主体が信仰者であるのならば、すべては主の栄光に相関します。

2014年8月30日土曜日

さて、ロゴスのありようとは別に(2011年12月28日)

西田哲学以来、主客合一の延長はすでに我々の手に入った。

そして、「主」とは交渉を持たない、価値の自発的形成が次の対象となった。

さらに、「主」の方も自発的「発生」の過程をたどって形成されたのではないか。


神は最も優れた人工的造形なのか。

価値の自発的形成。

受容者の自発的「発生」。


宗教学における現象学。

一般心理学における主体の確定。

2014年8月29日金曜日

概要(2011年11月18日)

生きるものは、はかない。そのはかなさに抗して、はかなさではない何ものかを確認しようとする。

生と死の価値の再認識は、確認の過程と確認を通過した後のどうしようもないはかなさへの立ち返りの過程をそれぞれ意識的にたどることだ。

生の再認識も、死の再認識も、いずれはかなさの圧倒的な力に引き戻される。

人は常に重力を受けている。いずれ地に伏すべきことを約束する重力を。


このことを、既出のタルコフスキー論に合わせても、宗教論に合わせても、音楽論に合わせても根本の課題は変わらない。