2013年12月31日火曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』8

ハーディンの論文『共有地の悲劇』の序にはウィーズナーとヨークの論文が引用されています。

それは、核戦争についての議論だったのですが、そこでは、軍事力の増と国家安全の減とのジレンマが取り扱われています。

それは「問題には技術的な解決はない」という結論を導きます。

同様に人口問題にも「技術的な解決」はないとハーディンは判断するのです。

根拠の一つは生物学上の事実であって、人口を最大にすれば、一人当たりの労働カロリーをゼロに近づけなければならないこと。

根拠の一つは数学上の事実であって、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによるもの。2つもしくは2つより多くの変数を同時に極大にすることはできないこと。

そして、従来の常識的倫理は捨てよ、といいます。

『救命艇上に生きる』では、おぼれている者は放置せよ、といいます。

いずれも倫理の性質の拡大を促すのです。

わたしは思うのです。

環境ー経済学が、今、従うべき方針は、本来非情なものなのではないか、と。

そして、当然の帰結として、現在および近未来の我が国の採用する方針を観測するのです。

さあ、教育の世界に帰ろう。

2013年12月30日月曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』7

そのシステムが「実」の性質のものか「虚」の性質のものかは、モデルを取り扱う主体の知的水準に依拠します。

公文氏らが、その立論を現実世界にできるだけ寄り添わせようとする理由は、本人たちに問わねばわからないことです。

あとは、リアルの世界の分析の現実性にどれだけ読者が興味を持つかによるでしょう。

読者論は遠慮しておきます。

公文俊平氏『情報社会学序説』6

システムの二重性。2つの次元の二重性があります。

結局、ハーディングに悩む、といった「共有地の悲劇」や「救命艇の倫理」をにらんだシステム構築を尊重し、そうではないものももう一つ構築するという二重性の場合。

それから虚のシステムを本来のシステム以外に意識するという二重性の場合です。

前者のペアでは、あるモデルとその乗り越えを図るモデルとの並置ですから、ともにリアルに存在するシステムです。

後者のペアでは、古典的革命論、例えば20世紀に隆盛を保ったマルキシズムなどの場合、眼前の現実世界の分析によるモデルと、そうではない理想状態への到達が叶った状態でのモデルがあって、あとの方は「虚」の様態をとります。

わたしは、虚の世界を同時に認識している弁証法的考察に関心を持ち続けてきました。もとはどこにあるか。実はヘーゲルにではありません。もともとドイツの哲学界に存在する対置概念を尊重する思考法に源流を求めています。

例えば、河上徹太郎氏の批評スタイルに強く影響を受けました。氏は音楽美学から文壇に移行した人なので、音について論じる基本を、楽譜とともに「直輸入」で身につけた訳です。

さて、この伝でいくと、公文氏の判断は、いずれ現実政治・経済システムの中で採用されてしかるべき実践性をたたえている筈なのですが、いずれの種類の二重性に位置するのでしょうか。

「虚」のシステムを意識するものではないような気がします。

コモンズ、共同体、への分析が現実のコモンズと理想のコモンズに分け「られない」ような気がするので。リアルの中で遷移する変化を視野の中に入れているのではないでしょうか。

公文俊平氏『情報社会学序説』5

おそらくは、ここには学問の「実践性」の問題が伏在しています。

政策施策についての実践感覚が判断の基準として呼び出されなくてはならないでしょう。

現実の描出に際して、数値化、数式化による近似が見出されることが、数理としての学問の勝利を意味するのであれば、その勝利はその場において完全に成立しています。

しかし、それはあくまでも客観的描出の勝利であり、それに基づいて如何なる判断を政治的に下すかは、別の事柄になります。

ヴェルトフライハイトのある種の解釈でもあります。

2013年12月29日日曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』4

読者各自の経験的知識から、関数の近似を補正したり否定したりするような「そうではない」項の提出をみる場合、どのようなことが具体的に考えられるでしょう。

「環境」の対象化のスタンスについての問題。

ハーディングとザックスとの間には今道博士らによる「エコエティカ」があります。

公文氏は現代の環境学の見解にハーディングを乗り越える契機を見出します。

しかし、その見解は環境ー経済学です。

ザックスらもまた、「公平」の概念を用いて富の均衡の平準化の可能性を計測します。

しかし、その見解もまた環境ー経済学です。エコエティカは崩壊しています。

かつて丸山眞男氏が『日本の思想』(岩波新書)の中でササラ型とタコツボ型との比較を比喩的に打ち出しました。これに倣うと情報社会学の世界におけるササラ型の情報交換=悲劇がここに認められると言えるでしょう。

政策施策の文法の問題。

政策施策には独自の文法が保持されています。たとえば、我が国においては、福祉的概念の打ち出しは、時の政権が保革いずれの存在であっても、まず保守の側から為されます。

厚生省、厚生労働省時代のはざまで介護の概念が対社会の普及施策のベルトコンベアーの上に乗りました。最初に基本概念が小さく讀賣新聞の紙上に現れます。そして少し時間をおいて各紙が後を追います。これらを受け取る側は初動のきざしを受け取り損なわないようにする必要があります。

情報社会学の世界におけるタコツボ型の情報交換=悲劇がここに認められると言えるでしょう。

公文俊平氏『情報社会学序説』3

著者はコモンズ(共有地)についての概念設定を中途で終えます。

というのも、ガレット・ハーディンの立論を否定的に乗り越える作業をしたからです。

コモンズの性質に応じて、議論は多岐にわたるでしょうし、著者は、この本を出版した時点でさらに未来に向けて展開しようとするいくつかの契機(「付記」)までも示しています。

その一つ一つを眺めていて、私が何か付け加えることがあるとしたら、・・・・・・と考えました。読者の数ほどそういう視点は発生し得るでしょう。

パレート、ジップ、アダミックが累積確率分布関数への道程を啓示したとして、構成単位が人である場合の社会事象の有機的、無機的取扱いを累積確率分布関数として理解することへの抵抗が限りなく小さくなっていくためには、システム論や有機体論への慣れが必要であるような気がします。

この慣れを学習する機会を取得するためには、知的努力や知的努力による諸産物を自由に駆使できる確信を持つことが、世の中に当たり前のようにある世界があるのだということを、まず知らねばならないでしょう。

そして、以上のような累積確率分布関数に対する理解が成立したうえで、ここで、読者各自の経験的知識から、関数の近似を補正したり否定したりするような「そうではない」項の提出をみなければならないでしょう。

2013年12月28日土曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』2

井伏鱒二氏がある会合の場で、自分の見聞した生き物について、周囲の人にその生態を面白おかしく話していました。

それを聞いていた三好達治氏が一言「おおむね正しいな」と言いました。

井伏氏はギョッとしたような表情を見せたそうです。三好氏はファーブルの翻訳をしていて覚えがあった訳です。

公文氏による立論は、実はこの井伏・三好の両者の立場を兼任しています。事実に立脚し、分析に依存するスタイルをとっていて、「情報社会学」という言挙げも元はインターネット等の普及に伴う情報ネットワークによるコミュニティー作成の推移に立ち会った上でのことです。

近未来の社会の姿を予想する行為が現実性を強く帯びているのはそういった研究姿勢によるものでしょう。
コンドラチエフ(Николай Дмитриевич Кондратьев、 Nikolai Dmitriyevich Kondratiev)の波のことを思い出してみてもよいかも知れません。

公文俊平氏『情報社会学序説』1

少しずつひもといて紹介したいと思いますけれども、公・私・共の3つの核を尊重しようとする姿勢は、「自分の見方の妥当性への確信」にいたるまで、この最後の「共」の原理と領域とを見つめ続けるものであったといいます。

わたしはここに佇んでしまいます。「自分の見方の妥当性」を測るような種類の社会科学の価値が、研究者自身の生き方や方法論にとどまるものではない「公的な」存在であることは明らかであって、その見方や見方に基づく判断の結果は、実際には世の中のある部分を受け持って導いていくものだからです。

啓発されるところが大です。

別のことなのですけれども、70年代のパラダイムの一つに小林秀雄氏の「社会化された私」というものがありました。これ中学の頃によく友人と議論したのですが、純粋に「私」の立場に立つことは、なかなか難しい世の中になっていました。

対抗馬の花田清輝氏は、楕円の2つの焦点というものに注目しました。名高い立論はナショナルなものとインターナショナルなものとの対立についてです。これらを単に対立させるだけではなく、2つの焦点に置いた発想を表示しました。ここで注意すべきなのは、あくまでも「ナショナルなもの」と言ったのであって、「ナショナリズム」とは言っていないことです。柳田農政学や民俗学、岡本太郎氏の原日本論などを念頭に置いていたようです。

公文氏の立論から拝借したものを少し変換すると、公・私・共の相互浸透が立ち現れます。ここから文化システム論がスタートするのでしょうけれども、公文氏自身はその類の著作を出してはいないようです。

インターネット時代の雑種文化論は、ある主体が、公私共の性格を自身の中に混在させているところから始まるものなのでしょう。・・・・・・楽しい時代になりました。

2013年12月26日木曜日

諸井誠氏

早朝4時20分から池辺晋一郎氏による諸井誠氏をしのぶ放送がありました。

黛敏郎氏との共作による「7のヴァリエーション」という作品があったことなど、私は知らなかったことがいくつも紹介されていました。

録音CDで実際に聴いたことのあるものしか記憶には残っていません。これは、怠慢だったなあと思いました。

まだまだ研究の余地があるのは楽しみでもあります。

2013年12月25日水曜日

ヴィゴツキーに会った日本人

山下徳治という人が、生前のヴィゴツキーに会っています。

既にドイツ留学の際に触れていたイェンシュの直観像理論をロシアの研究所でヴィゴツキーとルリヤ(Алекса́ндр Рома́нович Лу́рия、Alexander Romanovich Luria)が検証する実験に立ち会ったのです。

このとき山下氏はヴィゴツキーの研究スタイルを「一般心理学」であると言っています。この「一般」という表記に無限の含みがあります。そう見えたのです。

2013年12月24日火曜日

今、そこにいる自分ではない人間

今、そこにいる自分ではない人間、に対する行為であることが、教授行為の原点です。

ヴィゴツキー(Лев Семенович Выготский、 Lev Semenovich Vygotsky)が障害者教育の研究に没入した起点には、彼が研究者として生きるのと同時に行為者として施術者として相手となる人間に向かって働きかける姿勢がありました。

あるとき、身体を震わせていて、自分の行動を制御することが「できないように見受けられる」一人の人がいました。

ヴィゴツキーは、紙片を細かくちぎり、その人の前に並べたそうです。

すると紙片をたどって、歩き出したのです。

総体の行為が人間の行為であって、それは単なる部分の集合ではありません。

また、人は人に対して働きかけなくてはならない義務を持っています。

ロシア教育学の学習=教授理論の根底には、この総合性と実践性とがあります。先に挙げた4つの条件はこれに比べれば、ほとんど意味を持たないといってもいいかも知れません。

パーヴェル・セレブリャーコフのラフマニノフ集

パーヴェル・セレブリャーコフ(Павел Алексеевич Серебряков、Pavel Alexeyevich Serebryakov)のラフマニノフ集を聴きました。

タメ・マチを置いて、派手な展開の部分を随所において抑制します。

おそらくはルビンシュテイン以来のロシアの典雅な奏法の流れの継承者なのでしょう。

新しい体験となりました。

2013年12月23日月曜日

仮説の不備

仮説の不備は、必ずしもそれを立てる者の怠慢を意味しはしません。

より進んだ研究をするためには、考察の基本となるモデルはできるだけ簡素であることが望ましいからです。

オートマトンの応用なども自己増殖の基本を簡素な再生機構に置いたからこそ、今日のような発展をみたとも言えるのです。

非線形のものを線形に近似させてみる。

複雑な条件を1,2個因子を排除したものにしてみる。

例えば、株の取引きの基本にもこれらのことは応用されていて、個人の直観を十分に補う方法となっているのです。

逆に現実の状況に対処しなければならなくなったときに、状況の説明は、わざと簡潔なものにせざるを得なくなります。例えば、2000年問題のとき、またペイオフ確定のとき、私たちは簡潔な情報によって構成された説明のコトバにしなければ、容易に情報を共有できませんでした。

仮説はもともと近似的なものであって、一切をカバーすることはできません。

今、わたしたちが置かれている経済的状況について、膠着している、硬直化している議論を突破するために、仮説の不備を補う形で新たな提案がなされ始めています。

ここに救いの道を探るよりほかはないように、私も思います。
 

相反する2つの方針

価値論の世界では、まず自らの所在する地域の安定の確保を重要な行動方針の1つとしなければなりません。

例えば、地域に対する尊重の意識の延長上に「愛国心」が育てられることになります。

これはいわば求心性を持つ価値体系です。

一方で、世界の外には次元の異なる別な世界があって、場合によっては互いに被覆あるいは包含の関係にあります。最たる例が宇宙船地球号、という発想で、世界の外郭を地球にまで拡大するものとなります。

ここでは、世界が「開かれて」いて、最初にあげた地域の安定という「閉じられた」系についての考察とは別のものを必要とすることになります。遠心性を持つ価値体系です。

わたしたちは、世界のどの地域に住み、生きていようと、こういった相反する2つの方針を常に手にしていることになります。

要はバランスをとることが必要であるときに、両者の間に矛盾も生ずるのだという点です。

特に集団的心性が関与する場合には、私たちは決断した選択をしなければならなくなります。ただし、このことは今に始まったことではありません。

2013年12月22日日曜日

フッサールの前に

フッサールの前に、「生きている私」を基軸とする空間があります。

この空間はフッサールという生きている人間によって知覚される限りでの空間です。

私は現象学的心理学を用いる教育学を視野に入れていたので、こちらに関する考察は省きます。

情報に関する研究ではまず仮説としてのニューラルネットワークを構成します。

この過程で人はどのように学習するかが問題となります。こちらはコネクショニズムです。

さて、第一にニューラルネットワークに関する議論では、「生きている私」は捨象されます。

第二にコネクショニズムではニューラルネットワークの構成の過程で捨象された複雑な=未解明な=かっこでくくられた条件は再考されません。

第三に内的過程を重視する研究ではその内的過程への社会的因子の関与も省略されます。

第四に社会的因子の関与の排除によって内的過程の矛盾の過程の考察が重視されません。

我が国の教育学が1970年代以降一見反転しているかのように見えるのには、以上の4つの条件が関わっています。

これだけなら教育の世界だけの問題で済みました。

ところがこれが原因で、経済的破綻を招くとは、20世紀の間には多くの人間は予想できなかったのです。

 

2013年12月18日水曜日

TODDLERS ON TECHNOLOGY

面白い本でした。

iPadが電子おもちゃに化けるというのは、今の時代ならではでしょう。

2013年12月14日土曜日

島国である英国と日本

島国であるので、少し離れた距離から客観的にものごとをみることができるのでしょう。

しかし、だからといって優越しているわけではありません。

また、宗教も特別ですね。

2013年12月13日金曜日

坂本氏の新作CD一枚

坂本龍一氏の『RYUICHI SAKAMOTO Playing the Orchestra 2013』を手に入れました。

とても美しい音楽が13曲収められています。

わたしは「Rain」が好きです。映画ラストエンペラーの中で皇帝の周囲の人間の中でただ一人自由を獲得する第二夫人のテーマでした。

そんな劇の筋にもふさわしいし、映画から離れて独立した音楽としても切迫感あふれる展開の端々がキラリと光っていてこたえられません。

おすすめです。

ヨオロツパの文化

EUとは、ほぼ標準時を共有できる人々の集合体です。

2013年12月12日木曜日

標準時という思想

グリニッジ標準時、という一個の思想があります。

日本はGMT+9:00です。

この差異に伴う文化的性質の差異はいかなるものでしょうか。

そのことが私の持つ問いの中ではかなり重要なものなのです。

優等性と劣等性。

2013年12月11日水曜日

ムジカ・ポエティカ

<そこ>に音や言葉で与えられる充実があるのならば、生の充実の瞬間としては、充分であるのでしょう。

でも、与える人は立派だと思います。

2013年12月9日月曜日

心性が阻害する

こころの時代、という表現だと、無限の懐かしさと安らぎに直結してもいいでしょう。

しかし、経済のあり方がほとんどの基礎を決定するときに、経済の安定的な推移を妨げるのは、まず人々の心性です。

準備をさんざん重ねて努力して、大きな壁となるのは、人の心、人々の心です。

この働きの性質を徹底して分析して解体して、乗り越えることが必要です。

なかなか理想的な解が出ないものです。

2013年12月7日土曜日

あなたの一冊

いまの時代にあなたならどの一冊を推薦するでしょうか。

2013年12月5日木曜日

今思うこと

私は最近、経済に根差す社会構造の特徴は「相互搾取」に尽きるという叙述を読みました。

このことは、価値論、価値を意図的に抜き出してそれを対象化するような考察の場では「価値観の相克」という意味に転ずるでしょう。

現実の事実叙述が確実に成立していれば、そのあとに当為がくるのでしょう。

しかし、実際には当為が先なのです。

当為が先であるのに、そのことに覆いをして、事実を叙述していくのも、我ながらいかがなものかと思います。

我が国の経済状況はあと3ケ月が山場です。

苦しいことだと思います。