システムの二重性。2つの次元の二重性があります。
結局、ハーディングに悩む、といった「共有地の悲劇」や「救命艇の倫理」をにらんだシステム構築を尊重し、そうではないものももう一つ構築するという二重性の場合。
それから虚のシステムを本来のシステム以外に意識するという二重性の場合です。
前者のペアでは、あるモデルとその乗り越えを図るモデルとの並置ですから、ともにリアルに存在するシステムです。
後者のペアでは、古典的革命論、例えば20世紀に隆盛を保ったマルキシズムなどの場合、眼前の現実世界の分析によるモデルと、そうではない理想状態への到達が叶った状態でのモデルがあって、あとの方は「虚」の様態をとります。
わたしは、虚の世界を同時に認識している弁証法的考察に関心を持ち続けてきました。もとはどこにあるか。実はヘーゲルにではありません。もともとドイツの哲学界に存在する対置概念を尊重する思考法に源流を求めています。
例えば、河上徹太郎氏の批評スタイルに強く影響を受けました。氏は音楽美学から文壇に移行した人なので、音について論じる基本を、楽譜とともに「直輸入」で身につけた訳です。
さて、この伝でいくと、公文氏の判断は、いずれ現実政治・経済システムの中で採用されてしかるべき実践性をたたえている筈なのですが、いずれの種類の二重性に位置するのでしょうか。
「虚」のシステムを意識するものではないような気がします。
コモンズ、共同体、への分析が現実のコモンズと理想のコモンズに分け「られない」ような気がするので。リアルの中で遷移する変化を視野の中に入れているのではないでしょうか。
結局、ハーディングに悩む、といった「共有地の悲劇」や「救命艇の倫理」をにらんだシステム構築を尊重し、そうではないものももう一つ構築するという二重性の場合。
それから虚のシステムを本来のシステム以外に意識するという二重性の場合です。
前者のペアでは、あるモデルとその乗り越えを図るモデルとの並置ですから、ともにリアルに存在するシステムです。
後者のペアでは、古典的革命論、例えば20世紀に隆盛を保ったマルキシズムなどの場合、眼前の現実世界の分析によるモデルと、そうではない理想状態への到達が叶った状態でのモデルがあって、あとの方は「虚」の様態をとります。
わたしは、虚の世界を同時に認識している弁証法的考察に関心を持ち続けてきました。もとはどこにあるか。実はヘーゲルにではありません。もともとドイツの哲学界に存在する対置概念を尊重する思考法に源流を求めています。
例えば、河上徹太郎氏の批評スタイルに強く影響を受けました。氏は音楽美学から文壇に移行した人なので、音について論じる基本を、楽譜とともに「直輸入」で身につけた訳です。
さて、この伝でいくと、公文氏の判断は、いずれ現実政治・経済システムの中で採用されてしかるべき実践性をたたえている筈なのですが、いずれの種類の二重性に位置するのでしょうか。
「虚」のシステムを意識するものではないような気がします。
コモンズ、共同体、への分析が現実のコモンズと理想のコモンズに分け「られない」ような気がするので。リアルの中で遷移する変化を視野の中に入れているのではないでしょうか。