2013年12月28日土曜日

公文俊平氏『情報社会学序説』1

少しずつひもといて紹介したいと思いますけれども、公・私・共の3つの核を尊重しようとする姿勢は、「自分の見方の妥当性への確信」にいたるまで、この最後の「共」の原理と領域とを見つめ続けるものであったといいます。

わたしはここに佇んでしまいます。「自分の見方の妥当性」を測るような種類の社会科学の価値が、研究者自身の生き方や方法論にとどまるものではない「公的な」存在であることは明らかであって、その見方や見方に基づく判断の結果は、実際には世の中のある部分を受け持って導いていくものだからです。

啓発されるところが大です。

別のことなのですけれども、70年代のパラダイムの一つに小林秀雄氏の「社会化された私」というものがありました。これ中学の頃によく友人と議論したのですが、純粋に「私」の立場に立つことは、なかなか難しい世の中になっていました。

対抗馬の花田清輝氏は、楕円の2つの焦点というものに注目しました。名高い立論はナショナルなものとインターナショナルなものとの対立についてです。これらを単に対立させるだけではなく、2つの焦点に置いた発想を表示しました。ここで注意すべきなのは、あくまでも「ナショナルなもの」と言ったのであって、「ナショナリズム」とは言っていないことです。柳田農政学や民俗学、岡本太郎氏の原日本論などを念頭に置いていたようです。

公文氏の立論から拝借したものを少し変換すると、公・私・共の相互浸透が立ち現れます。ここから文化システム論がスタートするのでしょうけれども、公文氏自身はその類の著作を出してはいないようです。

インターネット時代の雑種文化論は、ある主体が、公私共の性格を自身の中に混在させているところから始まるものなのでしょう。・・・・・・楽しい時代になりました。