2012年1月31日火曜日

七人の侍

これは、まず音楽の世界から。

変拍子がはいった。

テーマ曲には李香蘭氏による歌詞付きの音源がある。

菊千代による回想の場面、老婆の扱い。

この2つが難題で、随分と時間をかけたのを覚えている。

ちなみに『白痴』では、これらのモチーフがもっと厳しいので、要注意だ。

原節子氏の所在が森雅之氏の表現を埋める。

映画監督というもの。おそろしい仕事だ。

1992年に久しぶりに先輩と会い

ソラリスの主題において顕著なのは、父性なのか、母性なのか、という議論をした。

海による幻影の中で、それは虚実いずれの世界にあってか、主人公は、父親のまえにひざまずく。

さて。

惑星ソラリス

人形が、壁を突き破る。

その前後の分析が、現象としての核心部分だった。

赤坂近辺の高速道路の一連の静かな展開は、なんだか、「ご褒美」だったような気がする。

リヒテルのモーツァルト

レオンスカヤとのデュエットより前には、ピアノソナタの音源はほとんど出ていなかった。

協奏曲の録音はいくつかあって、20も22も24も27もあった。

そして、結局、音の特性は、ソナタに良く出ているのだ。

聴き分けるのは、リヒテルの音だったろうか。

否。聴き分けたのは、モーツァルトの深淵なのだ。

音については、私の初仕事だった。

2012年1月29日日曜日

His Last Bow

1994年にはじめた、音の把捉における直観形式の解明が、リヒテルの死とともに終了。

茫然としていた。

剰余の課題がいくつかある。

モーツァルトにかかる見解「わからない」という言葉(モンサンジョンによるインタビュー記録)。
これは、謎の根拠としての謎となっている。

リヒテルのあいさつが記憶に残る。

2012年1月28日土曜日

バッハの最晩年の作品

それらの次には何がきたのだろうか。

スターリンの葬儀

リヒテルが延々とバッハを演奏し、ひきずりおろされた、という説がある。

未確認だ。

しかし、もし事実ならば、明白に象徴していることがあると思う。

アレクサンドル・ネフスキーにあっては

プロコフィエフらによる音の配置が、端的に観衆の耳をとらえる。

ひきずりおろされるオルガン弾き。

笛の奏鳴。

人声による斉唱。

これは、音と現実との接面の姿だ。

タルコフスキー作品にあっても、同様のことがある。

ロゴスは神の息吹

ゲンネンヴァインにしてもタルコフスキーにしても、もしそこに歌詞があれば、ドイツ語の展開に引っ張られる。

音の推移だけではなくて、コトバの支えがある。

これは、重要な意味をもたらすこともあるし、全く無用な付加物である場合もある。

例えば、ベートーヴェンがシラーから拝借した歓喜の歌は、その歌詞の意味が必ずしも音の推移と不即不離の対応を呈していないために、音自体が秘める変化も、歌詞自体の変化もその場においては充分に認識・受容不可能にしてしまう。

バッハでは、複数のカンタータが音の多様性を教えてくれる。そして、聖と俗とが交錯する。

そして、教会の会堂の中での演奏に適しないものも発生する。

ここでは、ロゴスは神の息吹「ではない」。


バッハ音楽の整則性

解釈者は、自分自身のテンポで演奏する。

フルトヴェングラーによるブランデンブルク3、5番が対象となったときに、指揮者が演奏し得るスピードの範囲内で、バッハと指揮者との共演がもたらす音がそこにあることを確認できる。

次は、バッハが何を考えていたか、ということだ。

この作曲者の思考過程をたどることが、必ず、次の次元で立ち現われる。

おおむね、バッハの音の解説書の純良なものは、この第二段階に多少なりとも触れる。

けれども、その「読者」は、どのようにたどっているのか。

ここが、出発点だった。

アンドレイ・タルコフスキー

最後の作品『サクリファイス』に幾つかの音源を活用した。

ここにバッハがある。ゲンネンヴァインによるマタイ受難曲。


『惑星ソラリス』のバッハと並べて、まだ映画音楽としての監督の料簡がわからなければ、仕方のない話だ。

レコードマップを片手に

学陽書房刊。

出張のたびにレコード屋へ。

金沢、大阪、岡山、福岡では市街地をかけまわった。

楽しかった。



2012年1月27日金曜日

間久部緑郎氏

クラシック音楽に関する知識の掘り起こしでは、ずば抜けているウィキペディアン。

この人物の付加した項目のおかげで随分勉強させてもらった。

廉価盤・海賊盤

ベートーヴェンのチェロ・ソナタをロストロポーヴィチとリヒテルで演奏したものがある。

古くはフィリップスで出されていたが、今では廉価盤ででも入手できることがある。

そして、音色に遜色ない。

名曲を子どもがお小遣いで買える。

2012年1月26日木曜日

聴き分けの不調

リヒテル、ヴェデルニコフのバッハ、リヒテル、レオンスカヤのモーツァルトのどちらも連弾の第一奏者と第二奏者の区別がつかない。

残念だ。

2012年1月25日水曜日

プラハの春音楽祭

録音集が豊富な音源をのこしている。

チェコの人々と、オイストラフが徹夜で演奏をしたそうだ。

人々の思い出の中にヴァイオリンが生きている。

2012年1月24日火曜日

春風のことば

釈宗演氏の若いころに、肇法師絶叫のくだりに相当の時間を費やしたという。

城門の外にまで声がきこえた。

それは何であったのか、というものだ。

公案として与えられたものではない。


さて、軍人の揮毫に、もしいたらないところがあるとすれば、それはそれだ。

しかし、誤解の仕方の中に、日本語の理解の仕方の典型があるのだ。

言霊、は飛躍であり補填であって、じかに歴史の魂に推参する。

それは悪くない。


いかがですか。

ネイガウス全集

デンオンがボックス盤で出した。

ショパンにはまいった。

マルコとワインガルトナー

新星堂の自主製作盤だったか、コルトーの作品集を聴いていて、はずみで、ニコライ・マルコとワインガルトナーを聴くことになった。

コルトーと共演していたわけではないが、コルトーの背後から、この2人の指揮者を発見した。

驚くべし。

マルコの切れ味は、ムラヴィンスキーの展開を穏当にしたようなもので、「この可能性あり」という別世界へのいざないだった。

ワインガルトナーは、大抵録音自体が古いのだが、音に耳が吸いついて行く。

まったく無知と言うのはおそろしい。

それでは、ロシアの音における民俗性、民族性とは

何か、というのだ。

そこで、ムラヴィンスキーとガウクとを聴きに聴いた。

この選手選抜が面白い、でしょ?

数年後に、リヒテルの音楽評を読んだ。

前者を褒め、後者をケチョンパに。

閉口した。

ロシアの音楽がなければ

日本の音楽の基盤は、ちがってしまっていたろう。

新世界レコード、赤盤の価値のみではない。

音に民俗性、民族性を入れていて当たり前なのだというのが、よかったのだろう。

アシュケナージ

指揮者として我々の眼の前に現れた。

会場には夫人同伴だったのではなかったか。

「ああ、そうだよ、確かに・・・・・・」という会話が聞こえ、われらの横をすりぬけて入館していった。

そして、音楽は、人々に身近なものだった。

オボーリン

典雅だが、音に芯がある。

それで、この人の独奏を聴かなくてはならない。

室内楽にあまりにも名盤が多いので、よくない影響だ。

アシュケナージの師匠であって、なるほどとも思うし、弟子の方がより繊細で対照的であるとも思う。

2012年1月23日月曜日

セレブリャーコフ

チャイコフスキーのピアノ協奏曲をムラヴィンスキーの指揮で録音した。

奏者の演奏の特質よりも、作曲者の作曲の経緯が説明に添えられていた。

曲を美しく演奏しようとする場合、独奏者も指揮者も努力する。

その在り方が調和して打ち出されていて、無類のものだ。

LPとCDとで、少し音質がかわる。

2012年1月22日日曜日

ボリス・ゴドゥノフ

タルコフスキー監督による演出のものがある。

ルブリョフ、ゴドゥノフ。

人の心底を表現すること。

虚構化しない現実。

ヴィシネグラツキーふたたび

音の世界の約束は原初へと仮に還元される。

音の世界の伝統的な約束ごとの中にある未見の本質がクローズアップされる。

モーツァルトからさらにバッハへと遡って、音の粒をみて、さらに、音の感受の甘美さの中に何を観るのか。

リヒテル

リヒテルについては、没後ライブ録音がかなり出てきた。

特に室内楽の演奏が多岐にわたっていて、課題がたくさんある。

バルトーク以降のものは、ひとつひとつが、初めての解釈の試みだ。工夫が際立っている。


グールドがロシアを訪問する以前からバッハを対象としていた。

そして、バッハについてリヒテルが何をその核心部分として摘出したかというと、ピアノを用いた教会音楽の演奏なのだ。

ムラヴィンスキー

近年、過去のLP等の良質な復刻が行われて、音の印象の総体が変化しつつある。

よく知らなかった、ということになる。

チャイコフスキーの交響曲、ピアノ協奏曲が、鮮烈な音としてある。

それより他にあるとしたら、録音状態は古いが、バッハの組曲2番だ。


音を演奏として活かす、指揮者による構成上の工夫が面白い。

おそらく、指揮者による音の淵源を知るには、チャイコフスキー以前の宮廷音楽や鐘の奏法を観るのが早いのだ。

今では、参考になるさまざまな種類の古典的作曲も、現に録音された音として、そこにある。

いい時代になった。



2012年1月21日土曜日

バッハの無伴奏チェロ

ロストロポーヴィチの音は、ロシアの音だ。


しかし、ベートーヴェンの三重協奏曲のオイストラフ、リヒテル、カラヤンとの録音の際は、チェロの音はオーケストラの音の推移に寄り添ったという。

もっともリヒテルのみの証言なので、あとの三者がどう考えていたかは不明だ。

そして、音は、そのとおりかな、と思う。

ピアニスト・プロコフィエフ

先年、プロコフィエフ著作集が邦訳され、その中で、プロコフィエフの渡米は「亡命」ではなかったことが明らかにされた。

正確には、我が国では、今まで誤った認識がまかりとおっていたということになる。

さて、プロコフィエフは日本ででもアメリカででも何回かコンサートを開き、旅費等を捻出していたらしい。

残されている録音では自作演奏に「3つのオレンジ」のマーチ、また、ラフマニノフの前奏曲23-5などがあって、何ともいえない味わいがある。

思弁的演奏、とでも言おうか。



オイストラフの録音

オイストラフの録音は、40年代、50年代の豊潤さが素晴らしい。

60年代以降の物は、リヒテルとの共演の場合に音が化けて突出する。

2012年1月18日水曜日

アレクサンドル・ネフスキー

おどろくべし。未見だった映像作品だ。

プロコフィエフの作品の全貌を知る者には、この音楽劇にも作曲者ならではの手法がちりばめられていることが判る。

中世紀の時代の表現方法は、シーン毎に、ひとの波、小道具、動く生き物それぞれにコンパクトにまとまっていて、安心して観ていることができる。

そして、主題は明確。



でんくわうやうりにしゆんぷうをきる

電光影裏に春風を斬る。

日本のコトバの世界で、「文学」の持つ力がどのように働くかは、このコトバの普及の仕方をみればわかる。

正解をたどっても、誤解をたどっても。

特に、揮毫には不適だ。

2012年1月8日日曜日

ヴィヴィアナ・ソフロニツキー氏について

ヴラディーミル・ソフロニツキーの音の分析は、必須の基礎作業である。

もう、今はコンサート一般に足をむけなくなってしまったが、労音のメンバーだったころ、次に誰を招きたいか、というアンケートがあったので、まよわずヴィヴィアナ・ソフロニツキー氏の名前を書いた。

奏法の伝統の確認のためである。

ギレリスの奏法

国際派、と目された。

また、「鋼鉄の打鍵」というフレーズが通っていた。

ベートーヴェンの皇帝協奏曲をベームと協演した音に、その「鋼鉄」を感じたことがあるが、ギレリスによる皇帝の幾つかの録音を比較して、ピアノとマイクの位置関係が協奏曲録音に与える影響を否定できなかった。

これに対して、「国際派」とは流麗で、細密な音の推移のなせるわざである。

「私ではなく、リヒテルがいる」という彼の発言に、余計な印象を受ける必要はない。

ギレリスはギレリス、リヒテルはリヒテルである。

2012年1月7日土曜日

もちろん

ここでも教育理論は割愛する。

存在への問い

ロゴスによって仮の決着をはかり、措定すること。

そして、それよりほかに、潜在的に存在に対して差し向けることの可能な感覚。

また、生きることの根源に関する納得。

問いに対する答えと問いの前後にある感覚や納得が我と我々との間に共有されている。

アドルノの反骨

ハイデッガーの中に、正統性や権威性の確保(陣取り)を見ているのだ。

根元的な問い

その性質は、それこそ、量感、質感などの解明の進むにつれて、どんどん背後に、すなわちさらなるメタ理論の向きに退いていくのである。

メタへと退くその手触りの程度で、論者の属する世代までもが決定されているようである。

一方で

ハイデッガーの指導教授はフッサールだった。

『存在と時間』の完成より前に、『内的時間意識の現象学』の講義草稿がハイデッガーのもとに届けられているのである。

ここにフッサールの時間論の基礎が、ハイデッガーの立論のどのような側面にとってのアンチテーゼであったのか、ということは、論者の立場によって分かれるところだろう。

今の謎と過去の謎

今にはたらく思念と過去にはたらく思念。

アドルノは音楽の人だったのだから、できたら、フッサールの『内的時間意識の現象学』をねえ。

1990年代以降、我が国で出版された音楽への現象学の適用の書物は、フッサールの『内的意識…』を批判的継承できていないのではないか。

1980年代にはすでに

ハイデッガーの『存在と時間』は、現実を明るみの元にいだし、現状を永遠化しないことに奉仕させるための参考資料であった。

しかも有力な。

アドルノは1969年になくなっているので、20年近く過ぎていたわけだが。

アドルノ・1

『哲学のアクチュアリティ』(みすず書房)を読んでいる。

冒頭いきなり、
「こんにち根元的な問いと称されていながら、その実根元的であることからもっとも遠い問い、あの存在そのものへの問い」
と、ハイデッガーによる問題設定にくぎをさす。

それは、「現実が正しく公正だと言い立てる哲学」であり、
「まさしく現実を隠蔽し、その現状を永遠化することに奉仕しています。」
と断定する。

ここからだ。

2012年1月6日金曜日

ヴィシネグラツキー

あの音源に1990年代に出会えて、本当にしあわせだった。

別の場所ですでに論じたことであるが、音楽としての音を聞き慣れた自分の感覚を洗い直す必要に迫られるのだ。


派生した、考えておくべきことがあるだろう。

心理学での量的な対象把握の議論とは別に近年「質」にかかる議論が打ち出されてきている。

コトバの使い方において示唆すれば、「量感」と「質感」というコトバの内実をもっと知りたいという願いがあるのだ。

「量」や「質」が単独で存在するのではなくて、量「感」、質「感」という認識論がそこにはある。

量への気づきの過程、質への気づきの過程の細部について、より詳しく知りたいのだ。

システムの蹉跌とシステム論の蹉跌

文化に関する価値は、すでにその検分以前に揺れている。

文化的価値の定義こそが、揺れている価値、という由来においてなされているとも考えられる。

1980年代には、時代が好況であったために、経済論の花盛りであった。

イギリスの立場やドイツの立場が透けてみえる、すると日本の立場も比較して考えられる。

考え始める地点が、ブレアであってもサッチャーであっても、ベルリンの壁が崩れる前であっても後であっても、経済的価値は通貨であり労働であって、文化的価値に比べればはるかに安定した価値であるから、考えはじめることはできたしできる。

イギリスが島国の立場で安定を継続できなければ、日本もまたできない。

ドイツが勤勉な労働に徹する機関として外からの評価を維持できなければ、日本もまたできない。
いやこちらの方は、勤勉な労働の価値に絶対的な誇りを持つことが認められないのならば、何の市場であるか、と言い換えてもよい。そのような市場が市場ならば、消滅するがいい。

我らは日々の仕事に戻ろう。ヴェーバーの言に従って。

2012年1月5日木曜日

向田邦子氏の跡を山口智子氏が訪ねる

面白い番組があった。

ただし、私は、向田作品に全く別の印象を持っているけれども。

もっとも私がどんな印象を何に対して持っていようと、それは世の中にとって大した意味はない。

だから、よいのだ。

2012年1月2日月曜日

ロシア・アヴァンギャルド

ヴィシネグラツキーの作曲が好適な基礎となる、と思う。

文化的価値の特徴

或るものがこれは文化的価値があるもので、その値は正である、と主張する。

別の或るものは、全く同じその対象を、価値はあるが、その値は負である、と主張する。

さらに、別の或るものは、それを評価する価値として全く認めない。

評価不能の状態の判断が、政治・経済の2つの領域では、投票行為や国富の評価によって一応つけられる。

文化的価値については、その価値の文化性自体では、判別がつけられないと考えてよい。

そこに、その文化的価値を、何か別の目的のための手段として用いることのできた度合い(政治性)とか、商品として流通した度合い(経済性)とかいう別領域での価値判断で代用して評価するやり方が通用する。

さて、文化的価値の評価のための純粋な基準とは何か。

国富の消失点

国富の消失点はどうやって見込まれるのか。

貨幣の流通の設定はその総量が、国民国家、企業体・組織体などの経済単位の経済活動上の実力に応じて、人工的に定められる。

したがって、ある時間に、ある経済単位としての社会がこれほどの労働能力をもっていて生産の実績をあげているのに、その構成員の保有する富の総量が小さい場合という場合には、「不当な不況である」といってよい。

国富の消失が論じられるためには、その国の経済活動総体に対する他からの評価が不況の延長で無限に評価不能の状態になることが想定されなければならない。

国富の消失点はその国の経済活動能力の評価不能の状態である。

周期性の定義の問題

    文化システムの周期性は、コンドラチェフになじむのか。周期性の成立と不成立とを分ける判別の基準が問題となる。

    例えばある文学作品が、「脱俗性」の高いものであると判定されたとしよう。仮に、判定する者やその作品の読者がそのことを肯定しても、作者は否定するかもしれない。

    ある音楽作品が、そこにあるとする。その作品は、ジャンルとして、「ジャズ」に分類されると判定されたとしよう。しかし、作者は否定するかもしれない。
   
     さらに、比較の拒否・拒絶もあり得る。

    外形的基準による強制的な判定をもって、周期の基準を定義し、確認しなければならない。

     したがって、主観性を帯びることによる精度の低さが常に否定できない。 

C-System

1.不況のときには喜劇がはやり、好況のときには悲劇がはやる。このことは本質的に文化システムの基礎と相関関係を持つか。

2.1.の答えが、肯定であるとき。
今日の日本の近未来に対する極端な楽観主義の根拠となるだろう。ここから派生して、
ア.経済システムをコントロールする為政者の側は、経済システムに起因する不況に対する被為政者の側の不満をやわらげるために、文化システムの機能を応用してよいか。
イ.被為政者の側は、為政者による文化システムの機能の応用に迎合してよいか。

3.1.の答えが、否定であるとき。
今日の日本の、笑いを無理強いし、これに観客を迎合させる文化の傾向は、文化システム独特の要素であることになる。
ア.文化システムをコントロールする側の人間は、この「笑い」のシステムの商品化をこのまま続けてよいか。
イ.「笑い」を与えられる側の観客は、「笑い」のシステムに迎合し続けてよいか。

マルクの幻影

1.ユーロ安定の度合いを問わず、ユーロの圏内にありながら、マルクの国が維持すべき要件は何か。
基礎構造の確保。
第二次大戦敗戦国にこそ、ヨーロッパを主導する最も健全な努力の成立する実績とそれを実現
させる理念とがともに存在することの実証。

2.もしユーロが解消されることがあるならば、既得の国富を確保できるか。
マルクが復活しても復活しなくても確保は可能。

ポンドの位置

1.ユーロの変化にポンドはどのような内容の影響を受けるか。

2.定式化ができるか。

続く課題

1.量は、時間の関数か。

  そのとおり

2.関数をどの程度まで立てるか。

3.時間項を解消できる第二の関数があるか。

2012年1月1日日曜日

元旦吉日

数としては。

(1)これから続く可算の時間単位がある。

(2)時間とは別次元の、プラスの値で見込まれている或る量がある。

(3)その可算の時間単位と同値の時間単位の中で(2)の量を

ア すべて費消する

イ 少し少なめに費消する

ウ さらに大きな時間単位に相応する量を費消しておく

のいずれかだ。

見極めが難しい。