ここに、貴重な著作が出まして、音を生みだす人の語る言葉が多くの問いをもたらし、また多くの解決をみています。
わたしは、最初に読み終って、著者の兄上である高橋悠治氏が、著者が弾く音が讃美歌のようになる、と評した点が頭の中で反響していました。
音は、それがどのような厳しい現実を活写するものであれ、そのことを認識してもなお、そこにその厳しさが表現されなぞらえられていることに感動を覚えずにはいられないものです。
それが厳しい認識とつながっていようとも、不愉快になろうと思って音を聴くのではありません。現実をそのようにとらえていることへの「共感」があって、そのことは変な言い方になりますが、喜び、に類するものとなるはずです。
讃美歌のような細い、高い、やわらかな、光源へと指向する音が、聴く者をどれだけ救うことでしょうか。
音の美だけは人を裏切りません。
価値の相対化を検証し、みずからの主観もきちんとバラバラに分解してやろうと待ち構えている者にさえ、それは絶対の真理です。
真=美がどこに存在するか、「言え」と問うて答えることができないのならば、例えば、『内的時間意識の現象学』なんて何の意味があるのでしょうか。わたしは美学者の作る文章が好きですが、美学なぞ信用しません。今道友信氏の著作ですら、ちょっと保留してしまいます。
生の現実の中に「在る」ことが絶対です。
わたしは、最初に読み終って、著者の兄上である高橋悠治氏が、著者が弾く音が讃美歌のようになる、と評した点が頭の中で反響していました。
音は、それがどのような厳しい現実を活写するものであれ、そのことを認識してもなお、そこにその厳しさが表現されなぞらえられていることに感動を覚えずにはいられないものです。
それが厳しい認識とつながっていようとも、不愉快になろうと思って音を聴くのではありません。現実をそのようにとらえていることへの「共感」があって、そのことは変な言い方になりますが、喜び、に類するものとなるはずです。
讃美歌のような細い、高い、やわらかな、光源へと指向する音が、聴く者をどれだけ救うことでしょうか。
音の美だけは人を裏切りません。
価値の相対化を検証し、みずからの主観もきちんとバラバラに分解してやろうと待ち構えている者にさえ、それは絶対の真理です。
真=美がどこに存在するか、「言え」と問うて答えることができないのならば、例えば、『内的時間意識の現象学』なんて何の意味があるのでしょうか。わたしは美学者の作る文章が好きですが、美学なぞ信用しません。今道友信氏の著作ですら、ちょっと保留してしまいます。
生の現実の中に「在る」ことが絶対です。