河上徹太郎氏の「自然と純粋」を吉田健一氏は敷衍する。
昭和17年10月號『批評』。
「近代に於る純粋の観念に就て」。
表現が「自然」であるのならば、ポドテキストとしての「純粋」があるのだ。
そして、吉田氏のたとえによれば、そのポドテキストの豊富さこそが、我が国の表現の背後にある認識=行為性の「伝統」の価値なのだ。
ここから出発しているので、吉田氏のことを小林秀雄氏が「あいつはものにならない」と断じても、その「あいつ」が持っている志向性があらわにならないのである。
昭和17年10月號『批評』。
「近代に於る純粋の観念に就て」。
表現が「自然」であるのならば、ポドテキストとしての「純粋」があるのだ。
そして、吉田氏のたとえによれば、そのポドテキストの豊富さこそが、我が国の表現の背後にある認識=行為性の「伝統」の価値なのだ。
ここから出発しているので、吉田氏のことを小林秀雄氏が「あいつはものにならない」と断じても、その「あいつ」が持っている志向性があらわにならないのである。