2013年9月23日月曜日

1985年

説明の相手によって、説明の仕方も内容も多少変化します。

教職員予備軍の人々向けといたしましょう。

1985年に研究者仲間の間で意見交換の場がもたれました。ちょうどわたしは小林秀雄氏の『感想』研究を終えたところだったので、次に何をやるか決めかねていた頃でした。

当時東京大学の中で隆盛だったシステム論の中でどの部分を受け持つかということだったのです。

友人の一人が、「君は関心の対象と表現の方法にほかの者にはない特徴があるから『テキストの読み込み可能なものの集約』をやったらどうか」と言いました。

このことを少しかみくだいて説明すると、通常日本語でつづられているテキストは、そのままの形式では、一般的な式に還元できないのです。記号化、英語化できないといってもよいでしょう。

また、日本語による表現の含む比喩の働きには、まだ解明されていない内容があるのです。特に文壇と呼ばれる我が国の表現世界でのギルドには独特の隠されたルールがあって、それを知らないと、文字通りの表面上の意味しか把握できません。

端的には「批評の意味がわからない」という具体的な現象を招くことになります。これはプロの文筆家でもあちらこちらで誤りをおかしているもので、批評の批評は難しい、という結果をもたらしています。

ここからの出発でした。