ソフロニツキーによるスクリャービン練習曲嬰ト短調です。
トロイメライ奏法の爆裂です。
この曲は、ロシアの古くからある俗謡をもとにできたものです。
したがって、既知の価値がそこにあると前提して、曲の構成を「アンソロジー」の形式に集約して見せてよいのです。作曲者の意図がそこにあったかどうかは不明ですが、演奏家における解釈は、そうあることができます。
ユーディナさんは、解析的に音を並べます。そして、楽団のテムポに合わせるところでは合わせています。遅速変化の統御が、ソリストの工夫の中心です。
ナタン・ラフリン指揮キエフ・フィルでした。
早くから仮説があって、モーツァルトをバッハのように弾いているのではないか、と考えていました。
このたび、まとまってモーツァルトの音源を確かめることができて、それは肯定されました。
ところが、バッハに立ち返ると、バッハはモーツァルトのように弾かれています。
従って、ユーディナ氏の奏法は、両者のあいだに礎があることがわかります。
1988年の心臓発作で倒れたのちに、復帰の際の曲として用いました。うたいながら練習し、実際に公演に臨みました。
晩年には、できるだけモーツァルトを弾きたい、と考えていたようです。
岩城宏之指揮フランス放送国立管弦楽団です。
この録音は、彫心鏤骨のものであったといいます。なお、リヒテルには、バッハの協奏曲のリハーサル風景が映像で残っていますが、これは静かなものでした。
1930年の作曲。演奏は1967年。世界にもバルトークの名が民族音楽の大家として知れ渡っていたときです。
したがって、民族性とともに、そこには新しい潮流が音として体現されなくてはなりません。この演奏家に求められる義務が、確固たる音の成果を「そこに」呈しているのが、一切の結果であり、始めとなります。
ここには、「還ってきた」という実感がいつもわきます。
ひとは、ブラームスの交響曲第1番の第4楽章にそれを求めることもあるでしょう。
あるいは、ドヴォルザークの新世界交響曲の調べにそうすることもあるでしょう。
アンダンテ・カンタービレの人もあるでしょう。
わたしは、この第2楽章が好きなのです。いま、リパッティ、カラヤン、ルツェルン音楽祭楽団で、聴いています。聴く機会を得てよかったです。
これは、内実を確認したかったところです。両者はずいぶん異なります。
ルフェビュール、リパッティ、フランソワ。
ちなみに、アントルモンのことをリヒテルは否定していました。ここからは別の話になりましょう。
わたしの師匠は、ギレリスの演奏が国際派、という俗称を得ていたことを、当然の評価であると考えていました。ベルギー、カナダ、アメリカをめぐって修道生活をしていた人物ですので、自らの経験と知識とに基づく判断でしょう。
このシューマンの録画は、アラベスクというヨーロッパ中心主義の否定的契機の表出である曲を、「ロシアの」立場から「ロシアにおける異国情緒」の感覚を残して演奏することに該当するのでしょう。タタール主義への感覚です。
面白いです。
棋譜は、反転させることができます。しかし、これは本物の反転ではありません。このことは、楽譜にある音符を逆行するときにも同じことが言えます。時代は変わっていて、録音をさかさまにたどることが可能ですが、音の列は音符の順に楽譜通りに反転させても、ニセモノの反転にしかなりません。