2012年11月14日水曜日

「自然と純粋」の敷衍

河上徹太郎氏の「自然と純粋」を吉田健一氏は敷衍する。

昭和17年10月號『批評』。

「近代に於る純粋の観念に就て」。

表現が「自然」であるのならば、ポドテキストとしての「純粋」があるのだ。

そして、吉田氏のたとえによれば、そのポドテキストの豊富さこそが、我が国の表現の背後にある認識=行為性の「伝統」の価値なのだ。

ここから出発しているので、吉田氏のことを小林秀雄氏が「あいつはものにならない」と断じても、その「あいつ」が持っている志向性があらわにならないのである。

2012年11月12日月曜日

純粋詩あるいは絶対詩

純粋詩あるいは絶対詩の所在を示唆するために、ヴァレリーは音楽を引き合いに出す。

「生起する一個の楽音はそれのみを以て能く全音楽的宇宙を喚起する。」

2012年11月11日日曜日

音の生成

詩人は術語あるいは数学の実現を図る。

音はどうか。

音はコトバとは異なる陰翳を擁する。

音のポドテキストподтекстはすみやかに夢を生み、ときにはそれを成就する。

2012年11月5日月曜日

吉田健一著『変化』より モーツァルトについて

「変化と慌しいのは従って対立する二つのものとも考へられる。どういふものでも、或はどういふことでも目立てば意識の平常の流れを乱すから慌しくてそれ故に新しいものばかりを追つてゐる人間は忙しい思ひをする。又目立つ程まだ新しいものは一般の変化並になるに至つてゐない変化であるからその形も定まつてゐなくて新しいことがそれが未完成である証拠になる。

併しモツァルトの音楽はそれが作られた時には新しいものに響いたに違ひない。」

このあとにモーツァルトの音楽の本質の一端が説かれている。それは省略。

少しあとで、こうある。

「詩も充実も詩人も世界で普通に行はれてゐる変化を乱さない点ではモツァルトの音楽と変りがない。」

さらに少し離れてこうある。

「モツァルトとショパンでそれが作つたものが何れも音楽であることに掛けて変りはなくてただ同じ音楽である上で違ふに過ぎずその違ひは聞いてゐれば解つてその何れも我々にとつて価値をなしてゐる。又それは自分の心を預けるに足りるといふことで或る種の光線を受けた山肌も我々の心を奪ふ。」

 

2012年11月4日日曜日

ふたたび、音の偏在

そして、類似の、また同時に相異なる音がいたるところにある。

「汎」の一字で表すことができる。

吉田健一氏の晩年の表現スタイルは言わば、「汎時性」であると高橋英夫氏が評した。

それが音ならばどうか?

評言を組み替えなければならない。

『思考の表裏』

ヴァレリー、ブルトン、エリュアールの三人がからんだ書物。

これにならうと、先の言明は組み替えられる。

「愉しみの時を選ぶことは出來ない。とくに精神が欲するだけでなく、魂や肉體が要求し、又既にその輪郭を大體描き出してゐる時に味ふことが出來ることはない。それは作曲家の意思に非常に有力な優越性を與へることである。何故なら、それは作品をしてその産れ出た所の、生きた世界と殆ど違はない世界などは一つも存在しないことを証すものだからである。音楽藝術家の仕事は、それが作曲家であれ演奏家であれ、音樂の中には、最高度の美的製作の本質的條件は唯一性であることを自ら見出さねばならない宿命を示すものである。」

一方で、ベンヤミンやアドルノには複製技術について問うことができるだろう。

ヴァレリーと音楽

「聴覚の世界に関しては、音や、響や、聲や、音色が、今後我々の手の内にあるのだ。」(河上徹太郎氏訳)

これは、録音のことだ。

「愉しみの時を選ぶことが出來ること、しかも精神が欲するだけでなく、魂や肉體が要求し、又既にその輪郭を大體描き出してゐる時に味ふことが出來ること、それは作曲家の意思に非常に有力な機會を與へることである。何故なら、それは作品をしてその産れ出た所の、生きた世界と殆ど違はない世界に蘇らせるやうなものだからである。音楽藝術家の仕事は、それが作曲家であれ演奏家であれ、此の録音された音樂の中に、最高度の美的製作の本質的條件を見出すのである。」

音の偏在。