音は過不足なく、音として結晶する。
2012年3月29日木曜日
2012年3月28日水曜日
柴田南雄氏
北園克衛による「三つの詩」。
抒情だという。
曲や声に集中してみたい。
まず不安の要素をうたっている。
それならば、不安をきちんと拾って対象とすることに耳はついていくのではないだろうか。
諸井三郎氏を思い出す。
戦時の作曲の内容は、はたして不安をも対象化したのだろうか。
わたしは「対象化した」と思っていた。
抒情だという。
曲や声に集中してみたい。
まず不安の要素をうたっている。
それならば、不安をきちんと拾って対象とすることに耳はついていくのではないだろうか。
諸井三郎氏を思い出す。
戦時の作曲の内容は、はたして不安をも対象化したのだろうか。
わたしは「対象化した」と思っていた。
二つ記しておこう
一つは、早い時期に「末期の眼」についての定見を持つことだ。
もう一つは、もっとも軽い意味でのダンディズムを維持することだ。
この二つが決して別々のものではないことが、おそらく本当のところだと思う。
それにしても、河上氏にとっては、黙っておこうと思ったことを、説くのも説かぬのも同値なのではないだろうか。
そこが厳しい。
「第一の批判者は、営々たる仕儀の中に学問の価値の応用を認めた。
したがって、学問の方法を用いなかった。」
ここでもとに回帰するのだ。
もう一つは、もっとも軽い意味でのダンディズムを維持することだ。
この二つが決して別々のものではないことが、おそらく本当のところだと思う。
それにしても、河上氏にとっては、黙っておこうと思ったことを、説くのも説かぬのも同値なのではないだろうか。
そこが厳しい。
「第一の批判者は、営々たる仕儀の中に学問の価値の応用を認めた。
したがって、学問の方法を用いなかった。」
ここでもとに回帰するのだ。
2012年3月27日火曜日
2012年3月25日日曜日
「諸井三郎とその門下の音楽」
KING RECORDS X TOWER RECORDSから出ている。
聴いていると、いままで諸井氏の音に対して抱いていたイメージが、実に貧弱だったことがわかった。
洗い直しだ。
聴いていると、いままで諸井氏の音に対して抱いていたイメージが、実に貧弱だったことがわかった。
洗い直しだ。
2012年3月23日金曜日
心貧しき者
「心貧しき者 ひとり新しき 途を拓く」(河上徹太郎氏)
本当に新しき途だった。
では、諸井三郎氏はどうだったのか。
音楽家ならば音楽だ。
なぜ作曲の活動を停止したのか。
何かをわたしは読み落としているのだろう。
本当に新しき途だった。
では、諸井三郎氏はどうだったのか。
音楽家ならば音楽だ。
なぜ作曲の活動を停止したのか。
何かをわたしは読み落としているのだろう。
2012年3月22日木曜日
飛鳥新書ボードレール著『赤裸の心』
ボードレールの意識的な努力は、彼の生きた時代の現実の克服のためのものだった。
悲惨な醜悪な対象とそれを表現する言葉が集積されることによって、評言は行為と化し、克服の手段となると考えたのだ。
河上氏はそこを先ず説く。
ところがそれは表向きの話だ。
氏は精神を論ずる。精神は異なる複数のものを比較する所からそれらの本質をあらわにする。
氏が価値を論ずるとき、論ずるための前提としての補助線が引かれる。その引き方が鋭いのだ。
河上氏は晩年に至るまで、いたるところでカトリックとプロテスタントの精神の在り様の差異を示した。差異は打ち出される。しかし、本質の追求の成果や結果は記されない。
このような鋭い前提と慎重な沈黙とは、例えば三島氏や澁澤氏にも見られない種類のものだ。
わたしは、今でも思う。そもそも精神とは冷徹に比較できるものなのだろうか。
できる。それは河上氏の説くとおり。そして評言はある。しかし、慎重な行為となる。これもまた氏の示すとおり。
悲惨な醜悪な対象とそれを表現する言葉が集積されることによって、評言は行為と化し、克服の手段となると考えたのだ。
河上氏はそこを先ず説く。
ところがそれは表向きの話だ。
氏は精神を論ずる。精神は異なる複数のものを比較する所からそれらの本質をあらわにする。
氏が価値を論ずるとき、論ずるための前提としての補助線が引かれる。その引き方が鋭いのだ。
河上氏は晩年に至るまで、いたるところでカトリックとプロテスタントの精神の在り様の差異を示した。差異は打ち出される。しかし、本質の追求の成果や結果は記されない。
このような鋭い前提と慎重な沈黙とは、例えば三島氏や澁澤氏にも見られない種類のものだ。
わたしは、今でも思う。そもそも精神とは冷徹に比較できるものなのだろうか。
できる。それは河上氏の説くとおり。そして評言はある。しかし、慎重な行為となる。これもまた氏の示すとおり。
2012年3月20日火曜日
岩波文庫『ベートーヴェン音楽ノート』
最初、1793年5月22日に記された言葉から始まる。
「なにものにも優って自由を愛し たとえ玉座のかたわらにあっても 決して真理を裏切るな。」
まあ、心底はそんな人だ。
そして、その前にはシラーからの引用。
ただし、シラーは常に哲学的理念、哲学的価値体系と芸術創作との比較によって言葉を用いてその実相を明らかにし続けたが、ベートーヴェンにはそういう厳密な表現追求の癖はない。
「なにものにも優って自由を愛し たとえ玉座のかたわらにあっても 決して真理を裏切るな。」
まあ、心底はそんな人だ。
そして、その前にはシラーからの引用。
ただし、シラーは常に哲学的理念、哲学的価値体系と芸術創作との比較によって言葉を用いてその実相を明らかにし続けたが、ベートーヴェンにはそういう厳密な表現追求の癖はない。
2012年3月18日日曜日
2012年3月17日土曜日
2012年3月15日木曜日
整理・総括
いままであちらこちらに書き散らしたものを整理してみる。
精神世界に関することはまだ出せない。
わが師は今では私を見てもだれだかわからない。
ベルギー、カナダ、アメリカで活躍してきた修業者が、認知症と二人三脚となっている。
機嫌のよいときには、唱歌やわらべ唄をうたうのだ。
うたは世につれ、世はうたにつれ。
精神世界に関することはまだ出せない。
わが師は今では私を見てもだれだかわからない。
ベルギー、カナダ、アメリカで活躍してきた修業者が、認知症と二人三脚となっている。
機嫌のよいときには、唱歌やわらべ唄をうたうのだ。
うたは世につれ、世はうたにつれ。
2012年3月14日水曜日
2012年3月13日火曜日
一杯のコーヒーから
作詞、藤浦洸。作曲、服部良一。
霧島昇とミス・コロムビアによって歌われた。
我が国の歌謡曲の中で、こんなものが発生したのは奇跡に近い。
服部良一氏の楽歴は元々洋楽である。
藤浦の長崎、服部の大阪、霧島の福島、ミス・コロムビアの北海道と、人々は日本中から集うた。
私見によれば、この曲が我邦の重心に位置する。
霧島昇とミス・コロムビアによって歌われた。
我が国の歌謡曲の中で、こんなものが発生したのは奇跡に近い。
服部良一氏の楽歴は元々洋楽である。
藤浦の長崎、服部の大阪、霧島の福島、ミス・コロムビアの北海道と、人々は日本中から集うた。
私見によれば、この曲が我邦の重心に位置する。
2012年3月12日月曜日
2012年3月11日日曜日
ブラック・スワン
映像は常に音楽とともにある。
それはロシアの音だ。
チャイコフスキーの音が白鳥の退場を以て終結する所を、その退場の意味を少し増幅して精神の運動の努力が「ここ」から「どこか」へと出て行く様を映像上の退場としたのだ。
ささっとくくって説けば、そういう風に逃げた。
したがって非常に低劣な動機であるのに、バレリーナの精神崩壊の表現が身体運動と表情しかも美しい表情との二段構えで成立するので、一発逆転、見事なエンディングとなっている。
俗なのに美しい。信じられない展開であると思う。
それはロシアの音だ。
チャイコフスキーの音が白鳥の退場を以て終結する所を、その退場の意味を少し増幅して精神の運動の努力が「ここ」から「どこか」へと出て行く様を映像上の退場としたのだ。
ささっとくくって説けば、そういう風に逃げた。
したがって非常に低劣な動機であるのに、バレリーナの精神崩壊の表現が身体運動と表情しかも美しい表情との二段構えで成立するので、一発逆転、見事なエンディングとなっている。
俗なのに美しい。信じられない展開であると思う。
ありがたいこと
我が国の映像分析の専門性とは何か。
昭和年間の映画批評から始まる。
「方法」の意識を移入したのは、文学者たちである。
文芸雑誌や劇評専門誌における表現の発生はやがて、映画の専門家と映画誌とを生む。
「映画の友」と「スクリーン」。
さらに専門誌で「映画史研究」。
昭和年間の映画批評から始まる。
「方法」の意識を移入したのは、文学者たちである。
文芸雑誌や劇評専門誌における表現の発生はやがて、映画の専門家と映画誌とを生む。
「映画の友」と「スクリーン」。
さらに専門誌で「映画史研究」。
2012年3月10日土曜日
2012年3月8日木曜日
自らの想念を示しておくこと
寂然、という表現がある。
例えば、座禅陣を布くとする。
それは遂に、寂然から寂然を差し引いて、何もなくなることだ。
さびしい、という表現がある。
愛する人たちに自分のことを覚えていてほしいという気持ちがある。
人間はそういう点で、相異なる存在でありながら、似通っている。
静かな室内で、針の落ちる音がするとする。
それは壁に吸い込まれる音かも知れないし、しばらく、あるいはまるで永遠に続くような形で反響する音かも知れない。
音は、わたしという人だ。あなたという人だ。
本当の音楽は、わたしの想念をあなたに示す。
そのことに尽きて、モーツァルトの音は、技巧派の技巧を封殺せしめる。
そこで、一見自在になったはずの音が、実は自在ではないことに思いをはせるのだ。
いつの間にか現れるモーツァルト。
例えば、座禅陣を布くとする。
それは遂に、寂然から寂然を差し引いて、何もなくなることだ。
さびしい、という表現がある。
愛する人たちに自分のことを覚えていてほしいという気持ちがある。
人間はそういう点で、相異なる存在でありながら、似通っている。
静かな室内で、針の落ちる音がするとする。
それは壁に吸い込まれる音かも知れないし、しばらく、あるいはまるで永遠に続くような形で反響する音かも知れない。
音は、わたしという人だ。あなたという人だ。
本当の音楽は、わたしの想念をあなたに示す。
そのことに尽きて、モーツァルトの音は、技巧派の技巧を封殺せしめる。
そこで、一見自在になったはずの音が、実は自在ではないことに思いをはせるのだ。
いつの間にか現れるモーツァルト。
2012年3月3日土曜日
禅意識とクリスト者の意識
観想に常に立ち返ることを基軸とするのならば、習慣が一切を律する。
最初「個としての観想」と記そうとした。
観想は個を消し、または個を超える。そしてそのままに個である。
共感と共観。
ここらまでは基本だ。
最初「個としての観想」と記そうとした。
観想は個を消し、または個を超える。そしてそのままに個である。
共感と共観。
ここらまでは基本だ。
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