2012年3月22日木曜日

飛鳥新書ボードレール著『赤裸の心』

ボードレールの意識的な努力は、彼の生きた時代の現実の克服のためのものだった。

悲惨な醜悪な対象とそれを表現する言葉が集積されることによって、評言は行為と化し、克服の手段となると考えたのだ。

河上氏はそこを先ず説く。

ところがそれは表向きの話だ。

氏は精神を論ずる。精神は異なる複数のものを比較する所からそれらの本質をあらわにする。

氏が価値を論ずるとき、論ずるための前提としての補助線が引かれる。その引き方が鋭いのだ。

河上氏は晩年に至るまで、いたるところでカトリックとプロテスタントの精神の在り様の差異を示した。差異は打ち出される。しかし、本質の追求の成果や結果は記されない。

このような鋭い前提と慎重な沈黙とは、例えば三島氏や澁澤氏にも見られない種類のものだ。

わたしは、今でも思う。そもそも精神とは冷徹に比較できるものなのだろうか。

できる。それは河上氏の説くとおり。そして評言はある。しかし、慎重な行為となる。これもまた氏の示すとおり。