2012年3月8日木曜日

自らの想念を示しておくこと

寂然、という表現がある。

例えば、座禅陣を布くとする。

それは遂に、寂然から寂然を差し引いて、何もなくなることだ。


さびしい、という表現がある。

愛する人たちに自分のことを覚えていてほしいという気持ちがある。

人間はそういう点で、相異なる存在でありながら、似通っている。


静かな室内で、針の落ちる音がするとする。

それは壁に吸い込まれる音かも知れないし、しばらく、あるいはまるで永遠に続くような形で反響する音かも知れない。


音は、わたしという人だ。あなたという人だ。


本当の音楽は、わたしの想念をあなたに示す。

そのことに尽きて、モーツァルトの音は、技巧派の技巧を封殺せしめる。


そこで、一見自在になったはずの音が、実は自在ではないことに思いをはせるのだ。

いつの間にか現れるモーツァルト。