2020年5月20日水曜日

ピアノ補遺

微分すなわちアキさんの方法にあっては、その終曲部にみられる音の結晶が一種の運動体であり続けていることを認識することになります。
積分にあっては、音の姿形が、存在の実相を呈することになります。実存を意味する、と付言してもよいと思います。受容する者は、そこにある内的言語およびそれを反映する自身の意識全体の双方を観測します。
ポリリズムは何を志向するか。ズルしてバフチンによるドストエフスキーのポリフォニー論を借用しましょう。同時に並存する複数の存在を対象とします。そのなかには、わたしが、他者の意識への近接を試みた内容の変形的言語の様態も含まれます。そして、それらの間を、本人の意識は遷移します。
ここでは、音楽家が音を意味づける初期的努力はチカラを持ちません。音の意味が、音自体の多様性によって彩られているのであって、音が人にあらたなことを教えます。場合によっては、個々の音、およびそれらに対する意識のありようは、ことごとく偶然的発現となります。
ここまでもってきて、さて、「他の人の内心の声に対して耳を傾けるように、事態を励起する営み」あるいは「誘い」は、どのように再論されるでしょうか。
真の悲歌とは何でしょうか。(これは、若き日の林達夫氏の問題提起でもありました。)理性に統御された明暗悲喜両面を併せ持つ類の簡素な音の集合であることに先ず第一の性格を求めるでしょう。しかし、選ばれた音は簡素でも、演奏はそこに人間存在一般の感情、その無限の数のさまざまなスタイルを活写するでしょう。そして、受容者にとっては、人の「情」に相当する何ものかの冷静な描出が成立することが、かなり重要なことになります。
問題となる2層、いま、「そこ」にある音により新たに地上にもたらされたすべてを特徴づけ、説明するための対置概念をどうするか。あとは若い諸君の努力に期待したいと思います。
わたしは、21世紀生まれのヤングですが、少々疲れました。じゃあね。
対置概念を発見したら、それを二次元的に直交させて4つの象限を表示してみてください。これは、見田社会学のスキルの一つでもあります。
そして、それら4つの象限のいずこからいずこへと風が回転しているかを示してください。
その現状診断のあとに、通常の場合、ここではさらに、いずこへと向かうべきかを考えることができます。
さて、社会学的反転とは、診断の部分の風の流れを反転させて、始期の段階での情勢判断に立ち戻り、それを破壊してみる試みを意味します。
推論
無定形の定型にあっては、自然音と宇宙音。
充実した理想的な静穏の確保と基底の確保。
したがって、身体的に統御された運動の可能性と演算の可能性。
であろうと思います。ここに、20世紀後半から21世紀初頭にいたる音の配置のための歴史的価値が収束するものでしょう。
強 い て 名指すならば、静止と運動、具象と抽象の両軸になるものでしょう。
リズム=テムポの発展形態にあっても、映像とのコラボレーションすなわち疑似的同時性(同時などというものは、この世には存在しませんから)の確認作業の発展形態にあっても、運動可能性と演算可能性の、静止対運動、具象対抽象の両軸が看て取れるのでしょう。
しかし、以上のような発想はありきたりのものです。クラシックな聆音察理の実際ですね。
新しい酒は新しい革袋に。若い諸君の努力を待ちたいところです。
ここで終えないで、もう一つ。変成と同一性の問題です。誰か、あるいは誰かたちのために振る舞おうとするのであれば、音がトレースしている、あるいは新たに創出するなにものかの保持する性質を、変成とも同一性ありとも見るものです。
何が先に立ち、それにどのように従属させるのかを考えないといけません。解析はスパスパ計算できます。でも、幾何的形象の推移によって、人の保護、人々への寄与のための条件を見定めておかないとならないと思います。
観察の徹底もよいですけれども、その成立よりも大切なものがありますので。
予想ですか?
キネステーゼの実際をどのように規定するのか、というさらなる網を全体に張ってみるという点検。
誠実な行為であるところの「二次元的展開」の範囲内に終始させるのではなく、わかりにくく、説明しにくい行為であるところの「より高次のn次空間」を考察の中に配置してみるという点検。
そんなところでしょうか。いずれにしても、まずは音自体に当たってみるところからやらないといけませんね。エゲンやメアンデルの音に立ち会ったうえで、考えることですね。

風を逆に吹かせて、遡源するとします。この運動はさまざまな人間が試みる常套手段ですので、誰もが自分なりにやってみることができます。
わたしは、尺八の音の分析のために、ヴェルゴ・レーベルを、ロシアの鐘の音の分析のために、クリストフォロス・レーベルの音源を調べてみたことがあります。
そこで、決定的に大切な注意点を申し上げますと、決まりきった原点にとびつく人がいるのです。
いやあ、ピカソの青が、とかゴッホの黄色がとかね。そこで、わがくにの文化の原点に飛びつくと、埴輪が、勾玉が、山桜が、ということになりますね。酒席での話のネタのように、既存の原点が賦活されます。
でもそれでは遡及不徹底なのです。
仮に、静止や具象の原点をさぐると、簡単にはいかないと思います。
これはある地点から影響を受けた、と発言することとは異なります。例えば、坂本龍一氏は、『惑星ソラリス』でのバッハ、アルテミエフについて言及なさることがあります。これは、いわば「そこから」と話すことです。
そうではなくて、遡源することは、普段容易には把捉されてはいない原点の音のありようを求めることになります。平板な静止、平板な具象とは何かを知るための行為に相当します。
それならば、「わたしは」何を以て平板と考えているのか。これがはっきりとしてきます。原点回帰のうえでの原点見直しあるいは原点破壊が、はじめて起動するのです。
価値論は、心理の結果ではなくて、むしろ心理のありようを解明する作業そのものが、価値の真核なのではないでしょうか。まあ、これにはいろいろな判断があり得ますね。
高橋悠治氏のことを、最初は文筆家として知りました。『小林秀雄を<読む> 』という15氏による小林論を集積した本がありまして、そこで、音楽論に接したのです。
以来40年、時の過ぎるのははやいものです。「指が月をさすとき、指を見るバカ」という観察が記されていました。結局、今回のわたしの討究も、指すら見ていない、という論旨をたどることとなり、さらに、「直観を磨く」という表現まで否定しましたので、なかなかね。
ハイドンとモーツァルトの交響曲を聴き分けるポイントは何か。
モーツァルトの曲の牽引力から離脱した演奏上の音の展開はどうなるのか。
この2つが、風の吹いていく先にある課題となりました。