今日、我が国にある禅は、中国を経由しなくては発生しなかった形態のものであると、鈴木大拙氏は言います。
印度から中国を抜ける間に、中国の文化の実際的な性格が反映して変性した、と説きます。
求めて、実際的な成果を獲得する禅になったものです。また、とくに、南宋禅のスタイルになってからは、達磨とわたしの悟りは同一のものであると判断します。
ところで、システム一般をこのことに隣接させてみると、どのようになるでしょうか。本来あるものが、当然あるように獲得される、という判断は、実は、システム論では、浮上してこない、存在しないものです。
ここに、たった一つだけ注意すべき点があります。
システムは、いわば道具であり、運用するものです。