2020年5月20日水曜日

高橋アキ氏

高橋アキ氏の演奏のおわったあとに、拍手を志すとします。
おわりが見つかりませんね。
それでは、どうして見つからないのかが問題です。
演奏会場で、他の聴衆の邪魔にならないように拍手を手控えるということを想定してみましょうか。そこには、他の人々の存在を肌で感じているという実感があるのです。
しかし、あなたは、あなただけが音に耳を傾けているという状況を考えてみてしかるべきでしょう。音があなたの思念を牽引し、あなたを沈黙させるのです。
音はあなたに何か普段とは異なる態度を求めます。あなたはあなたの自由に従って、音に随意に聞き入っていましょう。しかし、あなたが手をたたかない、声を発しないということは、あなたは不随意にそうなっているのです。
どこかに、アキ氏は、兄上から「教会の音になってしまう」と評されたことを書いていました。ここでの教会の音は、おそらく祈る者が己の内心を照らすありさまを指すのではないか。無論この場合、答えは一意に定まるものではありませんが、わたしはそのように思います。
だから、そのとき、音があり、余韻があり、しかし、人の心に向いた意識の先には、音ならざる何かがあるのでしょう。
『ハムレット』では、「言葉、言葉、言葉。」「あとは沈黙。」となります。
モートン・フェルドマン氏の音楽など、まさにそのように思います。そこにあるのは、わたしの内的言語です。