2020年5月20日水曜日

ヴィゴツキーの思念

しかし、音を聴く前と後との間にあるものは、それに触れていないと消失してしまいます。
また、内的言語一般が機能しているときには存在し、機能しなくなれば消失してしまう対象があることは、音経験に限るものではありません。
そこで、経験の2層があることを対象化しなくてはなりません。対置概念が発現する契機です。一見生と死との対立に近似するようにも思われます。しかし、大なる概念に帰着させると、対立自体があいまいになります。だいたい、わたしは、あなたは、「死」を規定できますか?
マンデリシュタームの詩語から、ヴィゴツキーはさらにこの対立へと移行するかに思われましたが、すでに命数が尽きていました。そのころ、すでにロシア・アヴァンギャルドの世界では、シクロフスキーらによるロシア・フォルマリスムが存在していました。でも、存在していただけで、正確な規定を得てはいませんでした。そして、いまだにそれはないものです。わたしの指導教官であった柴田教授からの宿題の1つです。
カトリック信徒の立場からは、ヴィジョンがあれば、あとは不要であり、先の問題設定は、別に生きていく上では、少しも必要ではないものです。われらは若年期に例の中原中也氏の「ヴァニティ」批難を潜り抜けているので、ヴァニティに当たるものは、後回しになります。
ところが、今日、歴史的悲惨に相対するにあたって、この対置概念から、社会学的措定を反転させる必要が生じてきました。何もない平時には、特段必要でもない思念が、こういうときには、きちんと整理されていないと、わたしたちの社会はみごとに歴史を生き間違うのです。
ヴィジョンに蓋をするという態度は、敗北主義のようでもありますが、そうも言ってはおれないでしょう。不必要なものを必要としてみせることを世に「贅沢」と申します。田舎紳士=田紳の贅沢、という提案は、師匠である修道士によるものでもあります。
ということで、これから数年沈潜しましょう。 「私は、私が言おうとしていたコトバを忘れてしまった。すると、具体化されなかった思想は、陰の世界に帰っていってしまう。」 「意識は、太陽が水の小さな一滴にも反映されるように、コトバのなかで自己を表現する。コトバは、小世界が大世界に、生きた細胞が生体に、原子が宇宙に関係するのと同じしかたで、意識に関係する。コトバは、意識の小世界である。意味づけられたコトバは、人間の意識の小宇宙である。」