ハーディンの論文『共有地の悲劇』の序にはウィーズナーとヨークの論文が引用されています。
それは、核戦争についての議論だったのですが、そこでは、軍事力の増と国家安全の減とのジレンマが取り扱われています。
それは「問題には技術的な解決はない」という結論を導きます。
同様に人口問題にも「技術的な解決」はないとハーディンは判断するのです。
根拠の一つは生物学上の事実であって、人口を最大にすれば、一人当たりの労働カロリーをゼロに近づけなければならないこと。
根拠の一つは数学上の事実であって、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによるもの。2つもしくは2つより多くの変数を同時に極大にすることはできないこと。
そして、従来の常識的倫理は捨てよ、といいます。
『救命艇上に生きる』では、おぼれている者は放置せよ、といいます。
いずれも倫理の性質の拡大を促すのです。
わたしは思うのです。
環境ー経済学が、今、従うべき方針は、本来非情なものなのではないか、と。
そして、当然の帰結として、現在および近未来の我が国の採用する方針を観測するのです。
さあ、教育の世界に帰ろう。
それは、核戦争についての議論だったのですが、そこでは、軍事力の増と国家安全の減とのジレンマが取り扱われています。
それは「問題には技術的な解決はない」という結論を導きます。
同様に人口問題にも「技術的な解決」はないとハーディンは判断するのです。
根拠の一つは生物学上の事実であって、人口を最大にすれば、一人当たりの労働カロリーをゼロに近づけなければならないこと。
根拠の一つは数学上の事実であって、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによるもの。2つもしくは2つより多くの変数を同時に極大にすることはできないこと。
そして、従来の常識的倫理は捨てよ、といいます。
『救命艇上に生きる』では、おぼれている者は放置せよ、といいます。
いずれも倫理の性質の拡大を促すのです。
わたしは思うのです。
環境ー経済学が、今、従うべき方針は、本来非情なものなのではないか、と。
そして、当然の帰結として、現在および近未来の我が国の採用する方針を観測するのです。
さあ、教育の世界に帰ろう。